「・・・・克哉さん・・・・今日もいない」
太一はベッドの上、包まっていた薄い肌掛けをずらすとその場で周囲を見渡し小さく声に出した。
不貞腐れたような鼻声と表情はきっと起き抜けだからだけではない。
これで何日目だよ?
太一は軽い苛立ちを覚えながら視線だけ上げ窓を見る。
カーテンの僅かな隙間から見える外の色は完全な黒ではないが白んでいるという程でもなかった。深夜でも早朝でもない名前のない時間帯。
太一がふとそんな時間に目を覚ましたのは数日前の事だった。『明日も朝晩は冷え込むでしょう』とお天気のお姉さんが言っていた通り太一の体も寒さを感じたのか、薄く瞼を開く。視界はぼんやりとした白。いつものシーツ。しかし隣で寝ているはずの同居人の姿がそこにはなかった。
・・・・あれ、克哉さんいない。トイレかな?
半分眠ったままの頭で考える。しかしその時の太一はそれ以上深くは考えず再びまどろみの中に落ちた。布団にはまだ克哉の存在がすぐ先刻まで隣にあったのを示すようにもう一人分の温もりが残ったままだったからだ。
翌日。
「うーん」布団に包まったまま無意識に寝返りをした時、何気なく瞼が開き太一は目を覚ます。辺りは暗く太一はまだ夜中だと思った。克哉の存在はない。
まだ克哉さん寝ないのかな・・・
ぼんやりと考えながら太一はまた眠った。
そして今日。妙にはっきりと意識が覚醒し太一はその言葉を口にしていた。
温もりも何も残っていない。肌に触れるシーツがゴワゴワと無機質に感じる。
居住スペース全部含めてもそんな大した面積ではない。克哉の気配がこの屋内にあればすぐに分かる。そのまま暫く耳を澄ませる。トイレ、洗面所、ベランダ。どこも物音一つしない。
克哉の体温がない。克哉の匂いがしない。
そう思った時、居ても経ってもいられず太一はガバッと体を起こした。室内ががらんとしているのはこの時間帯のせいだけではないだろう。
克哉が不在で一人でこの部屋にいる事位幾らでもあるし、そんな事位で不安になる程臆病ではないが、昨晩この部屋で「おやすみ」と言い小さなキスをして眠りについたはずの相手が連日明け方いなくなるというのはおかしい。
「どこで何してんだよ」
軽い苛立ちは時間が経つにつれ本格的な苛立ちに変わる。
買い物に行った?わざわざこんな時間に?しかも毎日?違うだろ。
オレに隠し事?浮気?まさか。日中の克哉は至っていつもの克哉と変わらず何かを隠しているようには見えない。
でも。他に何がある?
太一は無意識に爪を噛みながら一点を見詰める。僅かな時間はどんどん空気の色を変えいつのまにかすっかり日常的な朝の景色にした。
ガチャ
玄関で音がした。太一ははっと顔を上げる。靴を脱ぐ気配。上着を脱ぐ気配。近付く足音。
「おかえりー、克哉さん!」
「あ、太一、もう起きたんだ、随分早いじゃないか」
克哉は太一を見ると白い素肌を薄っすら紅く染めた顔色で明るく答えた。ピンと張った空気を身に纏った克哉からは外から来た者独特の外気の匂いがする。
「って!随分早いじゃないか、じゃないっ!克哉さん、こんな時間にどこほっつき歩いてんだよ!」
突然声を荒げた太一に驚いたのは克哉の方だった。
「え、こんな時間って・・・・今ってそんなおかしな時間か?」
「おっかしいじゃん、おかしい、普通じゃないって、朝だよ朝?ってかむしろ夜明け前?そんな時間に急にいなかったら普通心配するっしょ?しかも克哉さん、それ今日だけじゃないよね?ここんとこ毎朝いなくない?」
一気に捲くし立てる。そんな太一の様子を克哉はキョトンとした顔で見詰めるしかない。
「えっと・・・太一・・・気付いてたんだ・・・でもなんでそんなに興奮してるのかな・・・・・
オレ、ちょっと散歩に行ってただけなんだけど・・・・・」
「散歩?」
苛立った口調のまま太一は聞き返す。
「うん・・・・たまたま変な時間に目が覚めちゃって何だかそれから眠れなくなっちゃってさ。じゃあどうせなら外でも歩いてみようと思って」
「散歩ねぇ・・・」
横目でジロリと克哉の全身を見る。普段着で手ぶらの克哉の姿は確かにそれ以上でもそれ以下でもなさそうだ。
だからと言って胸に閊えるモヤモヤした感情は簡単に晴れない。
「うん・・・・オレ、前からふらっと目的とかなくて歩くの好きでさ・・・・キクチで働いてた頃も休みの日はよくフラフラ歩いてたんだ。と言ってもその頃はこんな朝じゃなくて用事が済んだ午後だったけど」
「ふーん、そうなんだー知らなかった・・・そう言えばたまに休みの日道で偶然ばったり会ったこととかあったよね」
少し考えたように話しながら僅かに声のトーンは落ち着いたが、それでも何やら納得出来ないものがある。気を取り直したように克哉に突っかかりに行った。
「だからってさ、黙って行くことないじゃん!ちょっと声掛けてくれるとか、オレも誘ってくれるとか思わないわけ?」
「でも・・・・早朝、散歩するなんて、犬でも連れていれば様になるけど、ただ歩いてるだけなんて・・・なんだかちょっと年寄りのする事みたいじゃないか?それに太一は気持ちよさそうに寝てるし疲れてるだろうし無理に起こすのも可哀想だし・・・・」
太一の尖った口先はまだ直ってはいないが、それでももう深刻さは影を潜めている。
「んー。そんな事言って、ほんとは克哉さん、オレのこと邪魔だとか思ってたんじゃないのー?」
「邪魔だなんて、そんな事ちっとも思ってないよ!ほんとにほんの思い付きで出掛けただけだし」
「でもここんとこ続けてでしょ?」
「うん・・・・最初の日は眠れないから仕方なしに、って感じだったんだけど、朝、外に出てみたら何だか気持ちよくてさ・・・」
その時の光景を思い出したように、一瞬遠くを見るようなうっとりとした表情を見ると、太一は対照的に、また憮然とした表情に戻る。
「克哉さん、なんか一人の世界に浸ってる」
克哉が我に返ると、尖らせた口のままうな垂れた太一が目の前にいて、ようやく本気で後悔した。
「そうだよな・・・もし、太一が毎朝オレに内緒で出掛けてたらやっぱり寂しい・・・よな。それに、ちゃんと太一に前の晩に、一言でも言っておけばよかったんだ」
「克哉さん・・・」
ゆっくりと視線を克哉に戻す。
「それじゃあさ。明日は太一も一緒に散歩に行こう。そうだ、犬の散歩だと思えばちょうどいいかもしれないな」
瞬く間に太一の表情がパァっと輝く。
「犬の散歩って、克哉さん、それ何気に結構ひっどいし!・・・・でもいいや!克哉さんと一緒なら。へっへー、たーのしみーーぃ、明日の早朝お散歩!」
「太一ってば、まるで遠足の前の日の子供みたいだよ。そんな大した事じゃないよ?別にピクニックに行くわけじゃないんだし、半分夜みたいなものだし」
「いーのいーの!克哉さんと何かお楽しみを見つけるってのがいいんだよねー」
「だから、何もお楽しみなんてないんだって」
「早く明日の朝にならないかなー」
「全くもう、全然オレの話聞いてないし・・・ほんと、大きい子犬みたいだよ」
克哉は苦笑した。
でも。ま、いっか。
本当は克哉も思っていた。一人歩きながら、太一と一緒にこの時間を過ごせたら、と。
「太一・・・4時半だぞ」
小声で呼びかけながら克哉は太一の肩を控えめに揺り動かす。ベッドの上すやすやと眠っている太一を見下ろす克哉はもう30分は前に布団から出て、既に顔も洗っていた。体にはパーカーを羽織り更にブルゾンも羽織っている。室内と言えども肌寒さを感じさせるこの時間、外出するにはその位の装備が必要だ。
「・・・・・う・・う・・ん」
太一は克哉の声に気付くと肌掛けから手を這い出させ、ごしごしと手の甲で瞼を擦る。そして半分も開け切らない目で克哉の姿を追った。
「おさんぽ・・・・・・いく・・・・・克哉さん・・・まって・・・・」
きっとこんな様子で起きるだろう。予想していた通りの太一の仕草に克哉は微笑んでしまう。
ミュージシャンの生活は不規則だ。曲作りをする時の太一は大抵時間が経つのを忘れ、時には食事を摂る事も忘れその行為に没頭する。レコーディングの時期になればバンドのメンバーと解散した後もいつまでも部屋でギターを爪弾いている。要するに夜型なのだ。朝起きるのは普段、もうすっかり日が昇った後、オフの日ともなれば昼近い。
そんな生活を送っている人間が急にこんな時間に起きる。下手をすればこの時間から眠る日さえある時間だと言うのに。
「無理して起きなくてもいいんだぞ」
やはり太一には辛いだろうな。そう思いながら克哉が声を掛けると、どうもその言葉がスイッチになったらしい。
「う〜〜〜〜〜〜〜〜ん!」
太一は両腕を大きく突っ張り1回伸びをするとガバッ、と布団を剥いだ。
「おきた!オレ、もう起きた!目、ぱっちり!行く、克哉さんと散歩する!」
太一の豹変振りに克哉は一瞬呆気に取られ、ぽかん、とした顔をしたがすぐに笑顔になると答えた。
「そうだね。一緒に行こう」
その後の太一は反動をつけるようにベッドから飛び起きると忙しなくバシャバシャと顔を洗い、ジーパンを履く。
「太一、外はほんとに寒いから暖かい服にしときなよ」
「はーい」
「靴下、履かなくていいのか?」
「いいのいいの、もうオレ慣れてんの知ってるっしょ?」
「そうだけどさ」
他愛もない会話をしながら太一もだんだん眠気が薄れていくようだった。太一がダウンジャケットを羽織るのを見届けると克哉は言った。
「じゃ、行こうか」
「うん!」
靴を履き、北向きの玄関のドアを克哉が開ける。
靴紐を結び終わり顔を上げた太一の目の前には四角く切り取られた紫黒。
太一は僅かに動きを止めた。
わ・・・なんか新鮮・・・・夜にどっか出掛ける事だってあるけどそん時の色ともちょっと違うし、空気の匂いも違う・・・・
克哉は微笑みながら太一の表情を見詰める。
太一、すごくいい顔してる。
一緒に歩こうな。きっと太一ももっともっと、この時間が好きになる。