「・・・・・あぁ・・・やっちゃったかな」

誰に言うでもなく小声で呟いた。
そんな克哉の声は、いつにも増して鼻に掛かったような・・いや、鼻が詰まった声だ。
「いっつも俺の風邪は鼻にくるんだよな」
一人苦笑しながら歩いた。
会社の帰り道。今日は一層北風が強くそれが身に沁みる。
コートを羽織ってはいたが、そんな物でしのげる程度の冷たさではなかった。
「・・・寒い・・・・・・熱はないと思うんだけど」
体調管理には気を使っているつもりだった。仕事から帰ると手洗いとうがいだって欠かさない。
時には紅茶を葉から淹れ、すりおろした生姜と蜂蜜をブレンドした物を飲みながらゆっくりとくつろぐ事もある。
それに仕事上、ドラッグストアーにも頻繁に足を運び健康食品も取り扱う立場だ。
そんな環境だと言うのに、こうして年に何度か風邪をひいてしまう。
・・・・・また御堂部長に小言を言われるんだろうな。
「君は、体調管理もろくに出来ないのか」
思い浮かべた声のリアルさに思わず克哉は首を竦めた。
「あれ・・・買って帰ろう」
小さく微笑むと、克哉は自宅の最寄駅近くにある小さな薬局に立ち寄った。
「あの、すみません。これ・・・・下さい」
商品を手にすると、小さなカウンターにいる白衣を着た男に差し出す。
無言のまま男はバーコードを当て、会計を済ませた。
・・・・・これでよし、と。
克哉は大事そうにビニール袋に入れられた商品を胸の辺りに手にすると、再び強い北風の中、家路を急いだ。
 

アパートが近付くと、自分の部屋から明かりが漏れているのが見える。
「太一・・・・来てるんだ・・・」
そう思うと、思わず顔がほころび足取りも軽くなる。
玄関の鍵を開け、ドアを開けると太一の姿と同時に明るい声で迎えられた。
「克哉さーんっ!おかえりっ!」
鍵を開ける気配を感じ、すぐさま駆けつけたのだろう。
さながら、主人を待つ忠実な犬のように。
ドアを隔てた外の冷たい空気から一瞬にして、暖かい温もりに包まれた気がした。
それは単に温度だけではないだろう。太一がこうして迎えてくれるから。
「うん・・・・ただいま」
太一を見詰めながら微笑む。
「あれっ?克哉さん、風邪ひいた?声、ちょっとおかしくない?」
たった一言、言葉を発しただけだと言うのに、太一はすぐさま克哉の声の異変に気付いたようだった。
「そうなんだ・・・・鼻が詰まってて。でも大した事はないよ。熱もないし。」
「えーーーっ、ダメじゃん!ほら、早く着替えて、あったかくしないと!じゃ、今日はオレが特別に特性卵酒作ってあげるから。
ゆっくり休んでよ・・・・って言っても、克哉さんといちゃいちゃ出来ないってのはちょっと残念だけど・・・・・・」
だんだん口調のトーンが落ちていき、最後の言葉を言い終えた時には、本当に残念そうな子供のような表情に、克哉は思わず噴出した。
「っふ・・・太一ったら。ありがとう。でも本当に大した事はないんだ。じゃあお言葉に甘えて特性卵酒、頂きたいな。」
克哉の言葉に太一の表情はパッと輝きを取り戻す。
「俺の卵酒ね、ほっんとに旨いし、効くから!親父もこれだけは『悪くない』って。あの人の悪くない、はすごくいい、って事だからさ。」
ちょっと恥かしそうに太一は笑った。そんな笑顔を見ると、克哉の心もどこか、くすぐったいような気持ちになる。
「そっか・・・・じゃあ、今度ロイドのメニューに入れてみたら?」
「えーー、克哉さん、喫茶店のメニューに卵酒はないでしょう?・・・・それにさ、オレ、克哉さんのためだけに作りたいなぁ・・・」
「え・・・・あ・・・うん」
不意に訪れた甘い空気に、克哉は顔を赤らめた。
それでも、ゆっくりと近付いた太一に「駄目だよ・・・風邪、うつるだろ・・・・・」と抵抗の言葉を告げる。
「いいよ、克哉さん。・・・・克哉さんの風邪、オレにうつしてよ」
耳元で囁かれ、克哉の半身に痺れに似た感覚が走る。
どうしても、太一のこの声には慣れない。普段、陽気で屈託のない陽性の響きを持つ太一の声がこうして囁く瞬間豹変するのだ。
少年のようなあどけなさは、幻だったかのように姿を消す。
そしてその声を聞くと、克哉は軽く身体を縛られたような気すらしてしまう。
「・・・・・卵酒は・・・・どうなったんだよ・・・・」
掠れるような声で、話を戻そうとした。内心、きっとこのまま流されてしまうのだろう、という事を予測しながら。
「あ、そっか」
一言だった。
素っ頓狂とも言えるほど暢気な声と共に、太一はそれまでの空気がなかったかのように平穏さを取り戻していた。
「え・・・・」思わず声を上げたのは克哉の方だ。太一がこんなにもあっさり引き下がるとは思ってもみなかった。
「もしかして克哉さん、がっかりした?」
悪戯そうに笑う太一は接近していた身体をひらりと浮かし、顔だけを近付け克哉の表情を覗き見る。
「そんなんじゃない・・・けど・・・・」
いや、そうなのか・・・。俺は太一に風邪をうつしてしまうかも、って思いながら心のどこかでそれも仕方ないって流されそうになって・・・・

「ほーら克哉さんっ!またーーそんな顔しないのっ。
ちゃんと続きは、卵酒飲んで元気になった後にしてあげるから。それに、その方が克哉さん、もっと気持ちよくなれるし。ねっ!」
「太一っ!」
咄嗟に叫んでもみても、こんな鼻声ではいつにも増して迫力がない。
「克哉さんのその声、ほんと、かーわいいなぁ」
「まったく・・・・・」
小さく溜息をつきながらも、不意に身体の力が抜ける。ベッドに腰掛けネクタイを弛めた。
「ところでさ、克哉さん、それ、何買ってきたの?」
キッチンの方へ身体を向け歩き出そうとした太一だったが、ふと克哉がテーブルに置いた白いビニール袋に気付いた。
「え、あぁ、それは・・・」
克哉は手を伸ばし、ビニールの中からおもむろに買ってきたものを取り出す。
「塗り薬だよ。と言っても患部に塗る類のものじゃなくって、呼吸を楽にする為に胸に塗るものなんだ」
「え〜〜〜、なにそれっ!それ克哉さん、買ってきたの?うっそ、CMでやってたりするやつだよね、これ?」
克哉の言葉を聞いた途端、太一は飛び掛らんばかりのテンションで克哉の元に舞い戻る。
「うん、そうだよ。太一は使ったことない?」
「ないないっ、1度もないって。大体ちょっと風邪ひいて薬を買って貰えるような家じゃなかったし。
それにさ、CMなんかでこれ見ても、どっか胡散臭いなーってずっと思ってたんだよねぇ。
だってこれ、服の下に塗るんだよね?で、寝るときは更に布団も掛けるんだよね?そんな状態で効く訳ないじゃん、って」
太一の矢続きな言葉を、克哉は微笑みながら聞いている。
「そう思うだろ?それが、体温で温められた成分は上昇してちゃんと胸元から鼻とか喉に届くんだ。
結構効果があって・・・・・最初俺も半信半疑だったんだけど・・・やっぱりこんな状態でドラッグストアーに回ってた時の店長さんがこれを勧めてくれて。
最初は試してみてもいいかな、程度だったんだけどね。今はたまにお世話になってるよ」
「へーっ!すっごいいい事聞いちゃった。バンドのボーカルの奴が最近風邪気味なんだよね。教えてやろーっと」
「それがいいよ。気に入ってくれるといいね」
「うん!・・・・・で。ところでさ、克哉さん、今日それ、塗るつもりなんだよね?」
「え・・・そうだけど」
太一の声色が途中で僅かに落ちた。

「じゃさ、それ、オレが克哉さんに塗ってあげる」
「あ・・・え・・・いいよ、その位自分で塗るよ」
敢えてその変化に気付かない振りをしながら克哉は答える。
あくまで自然な口調。なのに太一から感じる僅かな気配に胸が騒ぐ。
「だーめ。克哉さん。オレにやらせて」
強い口調ではない。命令でもない。これは「お願い」の筈だ。なのに、その口調に含まれる色香と言葉の中に含まれる脅迫めいた太一の企みを意識せずにはいられない。
太一がそれを使い、何をしようとするのか。
「・・・・太一」
「ん・・・?克哉さん・・・オレがこれを塗ってあげるのがそんなに怖い?」
「そんな事はない・・けど・・ただ、太一はそれだけじゃ済まない・・・・じゃないのか・・・・?」
恐る恐る思いを口にする。
「うーん、どうかなー。それは克哉さん次第、かもねぇ・・・」
「だったら・・・・」
「そんな目で人の事見ちゃってぇー。
オレさー、そんなイカガワシイ事なんかちっとも考えてなかったよ?純粋に克哉さんに早く楽になって欲しくてお薬塗ってあげたいなーって思ったのに。
加害者扱いっての?なんかひっどいよなー!」
「そんなつもりは・・・」
言いかける克哉の言葉を素通りするように遮る。
「本当はそんな事言って、克哉さんの方が期待してんじゃん?
克哉さんさぁ、一体オレがどんな事するの想像したの・・?」
秘めるように耳元で尋ねられ、克哉の身体は熱くなる。
「もしかして、すっごい事想像しちゃってた?・・・・・・ねぇ。教えてよ。」
伏し目がちになった太一の視線が克哉の唇を見詰める。
「太一っ・・・」
小さく名前を呼んだ後、無意識に唇を噛み締めた克哉を眺めながら微笑んだ。
 
続く



2008/3/5
甘い風邪