ダイジナヒト
「眠れないの?」
その声に克哉はゆっくりと振り向いた。
パイプ製の、お世辞にも高価とは言えないベッドの中から太一は眠そうに目を擦り、克哉に顔を向けている。
子供のような仕草、それでも自分を気遣う優しさのさり気なさに、克哉の表情は安らぐ。
「うん・・・でも・・・眠れないって言うより眠りたくない、・・・・かな」
窓から見える外の景色は既に夜を終え、次第に白んでゆく。克哉は窓辺に一人座り、静かに移り変わろうとする空の色を眺めていた。
「そっか」
太一は安心したようにそれだけ答えると、視界に克哉の後姿を留めたまま浅い眠りにまどろむよう体を横たえる。この部屋に二人で帰宅してから、そんなに時間は経っていない。
ほんの小一時間程前まで、新曲のレコーディングの為小さなスタジオに篭りバンドのメンバーとのセッションを繰り返していた。
初めて日本のレコード会社と組んでのアルバム企画。克哉がこの契約を取りまとめて来た時、メンバーは自分達が思うより大きく事態が進行する事に驚きを隠せなかった。
これが大きな転機になるだろう事は皆理解出来た。その為のレコーディングがこうして連日深夜まで及ぶ。
太一は音作りになかなか納得しようとしない。自分の中にある音楽と奏でる音の隙間を埋めるように何度も同じフレーズを繰り返す。そんな太一の僅かな違いの要求にもメンバーは同じ熱意で返した。
時に険しい表情で要求を出す太一だったが、それでも決して剣呑な空気にならず、ただ自分達の求める音に辿り着こう」とする情熱に繋がるのは、他のメンバーも太一の感性を信じている事の表れだった。
そんな様子を克哉はただひたすら見守るしかない。
熱が篭ったようなギターの音、応える楽器達。メンバー達の汗。その中に克哉が参加する事は絶対に出来ない。
しかし、こうして太一が自分の感じる音楽を作り上げていく過程を知り、密度の高いこの空間を共有する事で、太一の音楽が自分の体内に侵食していく心地よさを体感していた。
そして、メンバーが顔を見合わせ、充実感と達成感を湛えた笑顔を浮かべた時にはとうに深夜を過ぎていた。
見守り続けた克哉にも同じ笑顔が浮かぶ。
・・・・大丈夫。オレは自信を持って、この音楽をプレゼン出来る。
「克哉さんも疲れたでしょ」
太一はベッドの中から声を掛けた。寝起きの鼻に掛かった声は、歌う声とは違った甘さを醸し出している。
「オレはただ見てるだけだから大丈夫だよ」
「そんな事ないって。オレ達はもうなんか夢中になっちゃってるから意外と何ともないけどさ、見てるだけのほうがそういうのってずっと疲れるんだって」
そう言いながら実際は、太一はこの部屋に戻ると同時に倒れ込むようにベッドに身を沈めていたのだ。そんな太一に目を細め、克哉は一人体内に残るまだ冷めない音の余韻を静かに味わっていた。
「太一・・・あのさ。まだ日本にいた頃、ライブに行って朝帰りした日があっただろ?」
「うん?」
不意に切り出された質問に太一は、ちょっぴり意外そうな顔を向ける。
「あの日・・・・太一がオレに言ったこと、覚えてる?」
「うん・・・覚えてる」
「あの時、太一はオレに『克哉さんにも大事なものが出来るといいね』って言ってくれたよな」
「・・・・そうだったね」
『克哉さんにも出来るといいね。
そのことを考えると泣いちゃうくらい、大事なもの』
こんな昂揚と余韻。そして僅かな感傷を感じながら二人で過ごした朝だった。
「あれからさ、オレの中でその言葉がこう、胸にずっと引っ掛かってた。
『本当にオレにそんなものが出来るんだろうか』っていう不安とか、『あぁやっぱりオレは何もない存在なんだ』っていう自己嫌悪とか・・・そんなものが」
「そうだったんだ・・・」
「でもやっぱり、オレにはこれからも・・・そんなものは見付からないような気がしてた」
懐かしげに語る克哉の表情は言葉の内容とは裏腹に穏やかだったが、それを聞く太一は寂しげに視線を落とし、僅かな覚悟を決めたようにもう一度口を開いた。
「克哉さん・・・ごめん・・・。オレさ、ほんとそんなつもりはなかったんだけど・・・でも、もしかしたら・・あの時、なにもないって言った克哉さんの事、見下したような、驕った気持ちがさ、心のどこかにあったのかもしれない。だからロイドで大喧嘩した時、あんな酷い事を克哉さんに・・・・」
消え入りそうな太一の言葉と共に、克哉の脳裏にロイドでの太一の言葉が甦る。
『克哉さんはいいよな。大切なものなんかないから』
『泣いて這いつくばってでも欲しいものなんて、克哉さんにはない』
あの時、杭が胸に突き刺さり、息が出来なくなる程苦しかった言葉。目の前に突きつけられた事実。
そんな事を叫ばなければならなかった太一の苦しみ。まるで昨日の出来事のように思い出せた。
なのに、今、あの時間をこんなにも穏やかな思い出として受け止めている。
あの時の二人がいなければ、今の二人はいない。愛おしささえ感じる大事な軌跡。
こうしてゆっくりと取り出して、抱き締めたいほどに。
「いいんだ。本当にあの時のオレはそうだったんだから。
太一にそう言われても何も返せない。眼鏡に頼ってでしかその言葉に対抗する事が出来なかった」
黙ったまま太一は克哉の言葉に聞き入る。
「でも、今は違う。
確かにオレは、自分で何かを表現しようとか、誰かにオレを分かってもらおうって気持ちはないかもしれない。それはあの時の自分と何も変わらない。
でも・・・・それでもオレには大事なものがある。オレが出来る大事なこと。オレが這いつくばってでも守りたいもの。・・・・それが、太一の歌だ」
「克哉さん・・・・・」
「あの時のオレにはまだ、太一にきちんと返せる言葉もものもなかった。だから眼鏡の力を頼ってしまった。でも。今だったら太一に言える・・・・自信を持って。
これが『オレの大事なもの』だって」
克哉のゆっくりと穏やかな口調。それでも大事に、紡いでいくように語る言葉に耳を傾ける。ふと克哉が言葉を区切り微笑んだ時、ようやく太一は口を開いた。
「もしかしたらさ。
あの頃のオレだったら、今の克哉さんの言葉を聞いても『オレのために無理してるんじゃないか』とか
『やっぱり克哉さんには克哉さんの大事なものが必要なんじゃないか』って思ってたかもしれない。
でも、今は信じられるよ。
克哉さんがそう言ってくれるのが、無理してるとか、自分を犠牲にしてる、とかじゃなくって、心からそう思ってくれてるんだって。ちゃんと信じられる。・・・ありがと。克哉さん」
「・・・・うん」
満ち足りた気持ちに包まれる。胸に閊えていたものがじんわりと溶けていく。
きちんと伝えられた。太一にも。あの時の自分にも。
あの朝と同じように白み、澄んでいく空。
あの朝と同じようにオレは太一と過ごしている。でもゆっくりと時は進み、緩やかに自分は変わっていく。
決して生まれ変わったのではない。捨ててきたのでもない。確かにあの時間にいた自分はこの中に生きている。それはこれからも同じだ。
そして、その時間を共にするのは他の誰でもない。
目の前に微笑む、この愛しい人。
生み出す音楽と同じ位大事な。いや、それ以上に。
『大事な人』。
2008/3/18