傷
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「ピ――――――ッ」
ホイッスルの音が校庭に響いた。
海堂学園野球部と言えども高校時における体育の授業の単位は最低限必要だ。
『体育科の生徒は体育の授業にはそう熱心にならなくとも良い』
それは暗黙の了解であったが彼は勝負事において、そんな理屈が通用する人物ではないのだ。
一度ボールを自分の範疇に収めればあっと言う間に相手チームの鋭いディフェンスをかわし巧みなドリブルでゴール前まで切り込む。
「よっしゃ―――、見てろよ―――俺のミラクルシュートっっ!!」
大きく右足を後ろへ振りかぶる。
既に彼の目には数メートル先にある白いゴールしか入っていなかった。
その前に立ち、腕を広げ腰を落とす米倉の姿など視界に入っていても何の意味のなすものではない。
だが、その一瞬。
視界右隅から滑り込む様にスライディングで現れたその姿は、まるでコマ送りのように宙に浮かぶボールを捕え、シュートを決めようとした彼の足の到達地点から跳ね除けた。
が、結果行き先を失った足をその人物から避ける為体勢を崩し地面に倒れ込みながら二人は縺れた。
「…っつ…」
グランドの埃っぽい土の匂いが目の前にある。頬に細かな粒子が着く。
「吾郎君、大丈夫?」
すぐ至近距離に同じように地面近くいた人物が声を掛けてきた。
白い海堂の体育着を茶色い土の色で染めた寿也が心配そうに吾郎を見ていた。
「あぁ、大した事はねぇ、ちょっと擦り剥いたくらいだろ、そういうお前はどうなんだよ。」
「撲もそんなもんだよ、膝を擦ったくらいかな。大した怪我じゃない。」
視線を膝に落としながら言った。
そこへ、主審をしていた体育教官が二人の元へ駆けつけた。
「おい、お前等、あんまり無茶するんじゃない。もし体育の授業如きで大きな怪我でもしたら俺の責任問題になるんだ、ちょっとは手加減しろ。」
表情も変えずに二人を見下ろす。
「あ――あ―――悪かったな、周りがあんまり腰抜けばっかりなもんだからつい楽勝だと思って油断しちまったぜ。」
「なんだと?」
「あ、あの、すみません、先生、ちょっと擦り傷が出来てしまったので、保健室に行って来てもいいですか?念の為、消毒だけしておきたいので。」
寿也が二人の言葉を遮った。
「しょうがないな、じゃあ行って来い、お前等だけで大丈夫だな?」
「はい、大丈夫です、すいません…ほら、吾郎君、行くよ。」
寿也は立ち上がり吾郎に右手を差し出す。教師は背を向けホイッスルをならしながら立ち去った。
「ちっ、大袈裟だなー、こんなのちょっと舐めときゃほっといてもすぐ治るってのに…」
「じゃ今すぐ舐めてあげるからおいで。」小声で寿也が囁く。
「っつ!お前なー、真昼間からさらっと言うか?そんな事!」
叫んでから慌てて後ろを振り返った。腕を組んだまま訝しげな表情の米倉と目が合った。
「君から言い出しといて何言ってるんだよ、いいから早く立って。」
「ったく…。」
不貞腐れた顔のまま吾郎も立ち上がり土を掃う。
擦り剥いた膝が僅かにしみた。
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「失礼します。」
寿也が保健室のドアを開ける。
「あれ、誰もいないみたいだ。これは好都合だね、吾郎君。」
にっこりとした笑顔を吾郎に向けた。
「お前まだ言うか。」
呆れたように吾郎が溜息をつく。
「冗談だよ。さすがに僕だって授業中に欲情する程、さかっている訳じゃないさ。」
寿也は楽しげだった。
部屋に入ると吾郎はどさっと校医が普段座っている回転椅子に座りぼんやりと寿也の動きを目で追う。
寿也は勝手知ったるようにグレーのスチールの棚から消毒液のボトルや綿を取り出していた。
部屋に着く前に二人で水道で傷口を軽く流してあった。吾郎の右膝と右肘、寿也の右膝。
二人とも深い傷ではなかったが皮膚が捲れ薄っすら血と透明な液体が滲んでいる。
子供の頃からこんな擦り傷は日常茶飯事だった。この程度の表面の痛みは痛みのうちに入らない。
寿也とて、この位の傷で大騒ぎする程肝が据わっていない訳ではないと思うのだが。
まぁ、元来几帳面な性格なのだから形だけでも「手当て」をしないと気が済まないのか。
そんな事を考えていると寿也が「お待たせ。」と声を掛けながら近付いた。「あぁ。」
手にしていたボトルを机に置きながら「どう、痛む?」と心配そうに吾郎を覗き込む。
「馬鹿言え。ガキじゃあるまいし、こんなんで痛がってどうする。」
「あ、やせ我慢?」口元が微笑んでいる。
「んな訳ねーだろ。」吾郎の前に立った寿也が足元に跪いた。
吾郎は待っていた。ピンセットに摘まれた消毒液のついたカット綿で傷口を消毒するという当然の成り行きを。
「寿?」
僅かな異変に気付く。
寿也は動きを止めた。吾郎の前で吾郎の膝の傷口を見詰めたまま固まったように動かない。
吾郎から寿也の目は髪に隠れ見えなかったが口元の笑みがいつのまにか消えているのだけは見えた。
こんな瞬間の寿也が怖いのだ。
この一瞬、寿也の頭の中で何が起きているのか吾郎にはいつだって分からなかった。そして、そんな隔たりを感じる瞬間、心が掻き乱される。どうしようもない焦燥感にかられる。
「吾郎君…ここ、痛い?」
声がさっきまでの明るい口調から変わっていた。思い詰めた時の寿也の押し殺した声。
「―――――」
答えられない。
痛いと言えば痛い。でも意識せずにいようと思えばこの程度の痛みには付き合える。
ただ今は、寿也から注がれる視線にその傷が疼く気がした。
ぴくりと、寿也の体が動く。無意識に吾郎は身体を構える。
寿也の身体が近付く。
――――来る…
「…っつ…」
寿也が触れたのは膝の傷口。そしてそこに触れているのは同じように血を流した寿也の膝の傷口だった。
「―――何すんだよ。」
触れる傷口のしみる痛みと理解の出来ない寿也の行動が忌々しい。
「痛い?吾郎君……」感情を伴わないような寿也の声。
「痛ぇにきまってんだろ!?お前何すんだよっ!」
「僕も痛いよ、吾郎君。僕達、今、同じ痛みかな……」
言葉に詰まった。
目の前に佇む寿也を凝視する。
どうしてこいつは。
こんな事をしないと気が済まないんだろうか。どうすればこいつの中にある「足りないもの」を満たす事が出来るんだろうか。
「皮1枚分、君に近いね…」力ない笑い声。
「いつも気持ちのいい粘膜ばかり触れ合わせているとさ、こんな剥き出しの皮膚の些細な痛みが愛しくなったりして…オカシイのかな、僕は。きっとどうかしているよね。」
寿也は俯いたまま自嘲していた。
そうだな。お前はおかしい。どこか狂っているよ。
こんな事に意味なんてねぇ。例え同じ痛みを共有出来た所でそれ以上でもそれ以下でもねぇ。
でも、それでお前が少しでも救われる気がするんだったら、この位、どってことないんだよ。
痛みだって快楽だって、おんなじ事なんだよ。そうだろ?
そう思いながらそのまま寿也に口付けた。
お前には伝わっただろうか。
二つの正反対の感触はその両方を肥大させるようだった。
fin.
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