言いようもない苛立ちを打ち消す術。人はどれ程その方法を持ち得ているのか。
少なくとも、克哉はたったひとつの方法しか知らなかった。




□□□





克哉は、自分の足元に投げ出された太一の身体を忌々しげに見下ろした。ぼろ雑巾のように力なくうつ伏せ横たわった四肢。ここに来てから束ねる事のなくなった髪が無造作に床に散らばっている。明るい色に染められていた髪色にはまばらに褐色が混じっていた。
「もう根を上げたのか。意外に情けない奴だな」
聞こえているかどうかも分からない相手に克哉は声を掛ける。相手が聞いていようがいまいが行為は変わらない。
「俺がその位で満足出来るとでも思うのか。ほら、起きるんだよ」
太一の肩を踏みつけ力を込めるとそのまま揺さぶる。抵抗せずグラグラと身体は揺れた。それを見下ろしながら克哉の苛立ちは更に募る。
「起きろと言っているんだ。聞こえないのかっ」
勢いよく足を振り下ろすと脇腹の下を蹴り上げ、そのまま太一の身体を反転させた。うつ伏せていた身体はゆっくりと表を向き、その時ようやく太一の目は苦しげに瞼を振るわせた。薄く開いた口から小さく呻きが漏れる。
「・・・う・・・」
「どうやら息はしているようだな」
険しかった克哉の表情が歪んだ笑顔に変わる。
お前が死んでしまっては意味がないんだよ。
俺はお前を死なせやしない。
死なんかに逃げさせやしない。
地獄を味わえ。
「いっそ殺してくれ」と俺に懇願する程の地獄を味わうんだ。


「お前も哀れな奴だなぁ」
芝居がかった慈愛の声。しかし太一の身体は動かない。まだ意識は朦朧としているようだった。
「今、自分の身体がどんな風になってるのか、知っているか?」
愉しそうに目を細めながら太一の身体を眺める。かつての太一の身体は細身ながらも均整の取れた筋肉に覆われていた。若さを感じさせる肌からは生気が溢れていた。しかし今は違う。この数ヶ月で太一の身体は変わっていた。身体はくすんだ土気色に覆われ、胸板には肋骨が浮かび凹凸の影を作っている。更にその上には紫斑が身体に至る所に出来ていた。古い跡の上に新しい痣が重ねられ箇所はどく黒く変色している。
「馬鹿でもないお前なら分かるだろう?」
克哉は自分の性衝動が、暴力行為によって増幅される事を自覚してから太一に執拗に折檻を繰り返した。
ここに太一と自分が住むようになった当初は太一は自分に対し露骨に反抗的な態度をとった。自分を見る太一の目が敵意や憎しみに満ちているのを見ればそれだけで克哉の心は昂揚した。そして、きっといつまでも自分に対し太一は抵抗し続けるだろうと予測していたにも関わらず、太一の態度は急速に変化していった。克哉の言動に対し無関心な様子を見せたのだ。克哉の挑発の言葉にも太一は俯いたまま聞き流した。勿論太一が自発的に克哉に声を掛ける事はない。
そしてそれと共に、克哉の暴力は次第にエスカレートしていった。
折檻をし、苦悶の声を上げながら怪我を負った太一の姿を見れば、それに欲情し克哉はそのまま太一の身体を抱く。
暴力だけが生身の太一の反応を引き出す手段だった。
執拗な折檻は次第に太一の体力を奪っていく。最低限の食事は与えていた。はじめは太一も最低限の食べ物は口にしていた。しかしいつしか食べ物を摂取する為の体力も気力も衰えた。
「克哉・・さ・・ん・・・」
太一が名前を呼ぶ。
まどろんだ意識の中、空を彷徨う太一の視線の先には何が見えているのだろうか。
太一の中にある残像。存在などしない幻像。
これだけ太一の身体にあの克哉はもういないと言う事実を刻み付けていると言うのに、まだ尚太一の口からその名が呼ばれる事に克哉は新鮮な驚きを感じ、同時に奇妙な安堵をも感じる。
太一がこの名を呼んでいる限り、太一が死ぬ事はないだろうと分かるからだ。
死なせて堪るか。
俺はお前を憎しみだけで生かしているのだから。

「立て」
克哉は命令する。
一度口にした言葉は絶対に取り下げる事はない。ほとんど正常な意識のないであろう太一の頬を平手で打つ。
ゆっくりと瞼を開け、太一は光のない瞳で克哉を見る。そして条件反射のように克哉の言葉に従おうと膝を着こうとした。
しかし脱力しきった体はぐらりと大きく揺れる。
「何をしてる」
克哉は全裸の太一の肩を支えた。そして背後に立ち太一の体を寄り掛からせ、手にした朱の縄で小さく輪を作る。
それを太一の首に掛けた。太一は動かない。
縄の先端を肩に絡め順に通していく。
肩から胸、胸から腹部、腹部から性器へ、ゆっくりと縄は太一に巻き付く。
すっかり手順を覚えた手は、頭で考えなくとも太一の身体に縄を這わせた。
無表情のまま克哉は太一の身体を縛る。
身体からだらりと垂れた縄は、まるで死んだ蛇のように生気がなかった。
ここに来てから何度も何度も太一の身体を縛った。かつて太一が自分の身体にそうしたように。
日が追うごとに痩せ細る太一の身体から余る縄の長さが伸びる。縄は、みすぼらしくなった太一の身体をより一層際立たせていた。
仕方あるまい。
克哉は思う。
<アイツ>と違って快楽に墜ちる事の出来ない太一は、こうして俺に抵抗するしか術がないのだろう。
これが、こいつの精一杯の俺を否定する方法か。
哀れだな。
自嘲に似た哂いが漏れる。
と同時にふと湧き上がる自問の声。
俺は太一のこんな姿を望んでいたのか。
そうだ。
答えは分かりきっている。
俺は太一のこんな姿が見たかったんだよ。絶望の中で生きる太一の姿が見たかった。
でも、そろそろ終わりが近いのかもしれない。

ポケットの中から小さなサバイバルナイフを取り出す。折りたたまれた刃を取り出すと銀色の光が鈍く反射した。
克哉はそれを太一の首元に当てた。刃の先端が太一の皮膚に触れる。ゆっくりとその刃を動かすと、克哉は朱色の縄の繊維を切断した。指先にぷつぷつと細い繊維が切れていく感触が伝る。そして首に絡み付いていた縄が切れると胸の前で交差した縄に刃を移した。克哉はゆっくりとその作業を繰り返し太一の身体の至る場所の縄を切り刻んでいく。コト、と小さな音を立て短く刻まれた縄が床に落ちる。
「お前の役目は終わったんだよ」
静かな口調だった。
太一を覆っていた縄がすっかりと取り除かれると克哉は言った。
「屍みたいなお前を抱く気はもう起きない。お前ももういいだろう。遊びはもう終わりだ」
これが俺達の未来だ。
俺達が行き着く先は、どんな過程であれこうにしかならない。
その時、太一の肩が微かに震えているのに気付いた。
黙ったまま背中越しにそれを見詰める。
床に小さな雫が落ちる。
泣いているのか。
この期に及んで、こいつは何の為に泣くのか。
誰の為に泣いているのか。
取り留めなく思考が浮かんでは消える。
「そんなに怒ったのかよ」
それに紛れて太一の声が聞こえたような気がした。
そうだな。
俺はあの時の太一が許せなかった。
あの時の太一の声に心の中で答える。しかし次の瞬間、克哉は微かに狼狽した。
許せなかった?
俺が?
いや、違う。そうじゃない。
許せなかったのは<オレ>だろう?
あの時<オレ>が太一を許せなかったんだろう?
激しい頭痛がした。記憶が錯綜する。
<アイツ>と太一が口論したロイドでの記憶。
確かにあの時の意識はもう一人の佐伯克哉だった。
『これがお前の復讐なのか』
いつか言った太一の声が甦る。
まるで俺が<オレ>の為に復讐しているとでも言わんばかりに太一は言った。
莫迦らしいと思った。
下らないとも思った。
しかし、いつまでもその言葉が胸に閊えていた。
俺が太一を犯し壊す事は、太一の言う通り復讐以外の何物でもないではないか。
そんな想いが頭を過ぎり、その度に何度もそれを打ち消した。
俺は太一を壊そうとした。
もう後戻り出来ない位完膚なきまでに。
太一が<オレ>にそうしようとしたように。
太一が<オレ>を苦しめたように。
太一を苦しめ壊す事だけが目的だった。
その先に待っている未来などどうでもよかった。
既にあの閉塞された空間の中の二人に、未来などなかったのだから。
<オレ>にも。太一にも。
じゃあこれは復讐ではないのか?
思考はいつもそこに辿り着く。
ならば。
振り切るように、自分の中に確かに息づいていたもう一人の自分に問い掛ける。
お前はあの時なんの為に眼鏡を掛けた?
何の為<俺>になった?
お前は太一から逃げたんだろう?
太一から逃げ<俺>に縋ったんだろう?
壊れていく太一から逃げて、壊れていく自分から逃げて、お前は、自分から自分でいる事を放棄したんだ。
そしてこの<俺>が太一に復讐するのを望んだんだ。
この結果は<オレ>が望んだ事なんだよ。
「違う」
強い思考が脳裏に浮かぶ。
真正面から対峙するような揺るぎない強い意思を感じる。
この声は俺のものなのか。オレのものなのか。
流れる言葉は止まらない。
確かに<オレ>は<オレ>から逃げたかった。
全てを捨ててしまった。それは間違えない。
でも。
オレは太一から逃げたかった訳じゃない・・・・
太一の傍にいたかった。例えあんな形であったとしても。
ならばどうして。
オレが自分を手放したのは<オレ>がもう、太一が望む<オレ>じゃないと感じたからだ。
それだけがオレは耐えられなかった。
太一に望まれない存在の自分なんていらなかった。
<オレ>にとっての<オレ>なんてどうでもよかった。
でも。
逃げても逃げても同じだった。
<オレ>が<俺>に逃げても。<俺>が<オレ>に逃げても。
お前は・・・・オレだから・・・・・・
激しく胸が痛んだ。
まるで身体を打ち抜かれ、ぽっかりと空洞が出来たようだった。

それでもオレは、まやかしの存在だって否定するのか?
本当の自分じゃないなんて言い切れるのか?
確かに<お前>ならもっとうまく立ち回れたかもしれない。
今とは違うオレの人生を、歩んでいたかもしれない。
でも、<お前>は知らないだろう?
人は変わっていく、って事を。
眼鏡を掛けようが掛けていまいかなんて関係ない。
<お前>がずっとお前のままで生きていたとしても、きっとそれまでの<お前>のままじゃいられなかったんだよ・・・・・
<お前>が知らないような痛みや辛さや切なさをオレは知っている。
上手く生きたいのに器用に生きられない悔しさやもどかしさや苛立ち。
でも、それはオレだけじゃない。お前もだ。
みんなそうだったんだよ・・・・・きっと太一も。
そうやって、流れる時間を生きてきたんだ。
決して上手くは出来なかったとしても・・・それでも。

俺の中で<オレ>は泣いている。
<オレ>の涙が俺の頬を伝い流れていく。
どうしようもない位、同じ体だった。
どうしようもない位、同じ人間だった。

伝った雫が太一の肩に落ちた。
ピクリと太一の身体が震える。
恐る恐る太一は振り返ろうとした。自由の利かなくなった身体をゆっくり動かしながら。
俺達は何度、同じ過ちを繰り返せばいいのだろう。
そう思いながら、克哉は眼鏡に手を掛けた。