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それからほぼ1ヶ月で俺は退院し、その足でオフィスに出向いた。
毎日通い慣れていたであろうその道のりが、今は自分にとって酷く場違いなもののように思える。
道すがらすれ違うスーツの男達。歩道橋の上、風を切って自分の傍らを通り過ぎていく。
それはほんの数ヶ月前までの自分の姿だ。俺はそんな男の風圧に立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
病室から出たばかりでラフな白い綿のシャツとスラックスという服装の自分はこの中で異質な存在に感じられる。
オフィスに足を踏み入れてからも自分を囲む違和感は消える事はなく続いた。
「あ、社長、おかえりなさい!」
俺の姿を見ると女性社員は驚きと戸惑いの入り混じった表情をした。
「退院おめでとうございます、今日退院するとは伺っていたんですけど、まさかすぐ出社するなんて知らなくて・・・・仰ってくれれば迎えに行ったのに・・・」
「構わない。それより他の奴はどうした。」
デスクが並ぶガランとした室内を見渡す。
「今は全員外回りに出ています。社長が入院してから暫くは大変でしたが、ようやくみんな慣れてきて何とか仕事を回せるようになってきたら俄然やる気が出たみたいで。それまでは社長の指示が絶対で、自分の意見なんかとても言えなかったから」
そこまで言って、女ははっとしたように俺を見た。
「そうか。それじゃ俺はもう用無しって事だな。」
「すみません、私、そんなつもりじゃ・・・」
心底すまなさそうな表情が、逆に自分の立場を理解させる。
彼女を責めるつもりはなかった。仕方がないだろう。突然原因不明の投身自殺を図った男が経営する会社などいつ辞めてもおかしくはないのだ。
「いや、皆には本当に感謝している。」
それだけ言うと俺は視線を外し窓の外に目を向けた。
■■■
デスクの電話がなる。
時折は俺も受話器を取った。しかしすぐに「担当の者と替わる」と告げる。それを見ながら俺を咎める者は誰もいない。実際俺に用件のある電話などなかった。
ここにいる人間は俺を「精神的なリハビリ期間中」と認識しているのだろう。どこか腫れ物に触るような生温い労わりと憐れみの空気が満ちている。
それを俺は安穏と受け止めていた。
自分でも原因の分からない自殺未遂のせいでこんな境遇にいる。かつての俺なら憤りも感じたかもしれないが今はそれに抵抗しようとする気持ちが一切起きなかった。
「社長」
その声が自分が呼んでいる事にしばらく気付かなかった。
「社長、電話です、社長」
はっと我に返る。
視線の先には若い社員が若干苛立ちの色を滲ませながら受話器を持ち、俺を見ていた。
「あぁ、すまない」
俺に電話?訝しげに受話器を上げる。
「誰からだ。」
「片桐さんと仰っていました。」
その名前に、俺は一瞬にして苦々しい思い出を脳裏に描いた。病院での一夜の出来事。そして翌朝の片桐の横顔。紛れもなくその姿は老人だった。
その頃の俺は怒りという感情をほとんど感じなくなっていたが、なぜか片桐の名前を聞いた時、激しい怒りを覚えた。なぜそんな思いを持ったのか自分でも分からない。
片桐が今更俺に何の用があると言うのだ。
片桐は自分より18も年上だ。老いは誰にでも訪れる。自分とて若かった頃の自分とは違う。身体と精神を支配する激しい欲望のままに他人を意のままにしようとした事もあったが、そんな熱情は今の俺にはない。きっとこうやって人は少しずつ欲を削ぎ落としながら老いていくのだろう。
そんな事は分かっている。
だが、あの夜片桐が俺がかつて御堂を犯した事を引き合いにし、姿を隠しながら言葉だけとは言え関係を迫った事に不条理な失望を感じずにはいられなかった。
ノロノロと受話器を近づける。
「佐伯です。」
感情を抑えて言った。
「あの・・・・片桐です・・・佐伯君、こんにちは。」
当たり前の挨拶が、酷く馬鹿にしたもののように思えた。
「何の用ですか。」
自然と声は冷やかなものになる。
「そ・・その節はどうも・・・あの・・・」
片桐は言い淀んだ。言葉が続かない。
「用がないなら切りますよ。」
俺の苛立ちは更に募っていく。
「あ・・あの、ちょっと待って下さい、今、僕は君の会社のビルの近くに来ています。」
「それがどうかしましたか。」
「もし5時で仕事が終わるなら、その後、・・・・会えないでしょうか。」
時計を見ると4時を過ぎたところだった。
「生憎ですね、今日は忙しい。ちょっと会議中なので失礼します。」
そう言うと邪険に電話を切った。
俺に会いたいだと?どうしたらそんな事を考えられる?
近くにいた社員が不審な目を向けている。苛立った様子の俺を見るのは久しぶりだろう。俺の会話は聞こえ筈だ。
「ちょっと面倒な男に付き纏われてる。」
その視線に答えるように言った。
「そうなんですか。」
短く返した後、その若い社員は意を決したように俺を見据えた。
「でも社長、これ以上、面倒な事に巻き込まれないで下さい。」
「ん?」
「社長が誰に付き纏われようが俺には関係ない。でもこれ以上会社に迷惑を掛けないで欲しいんです。
正直言って、俺達やり辛いんですよ、社長がそこにいられると。皆、社長が何を考えているのか分からないんです。どうしてそうやって無神経にそこに居続けられるのか。俺だったらそんなの耐えられない。」
そこまで一気に喋ると、受けて立つ、と覚悟するように俺を睨みつけた。
フロア全体がしんと静まり返る。息を飲み俺達に視線を注ぐ。
俺はその静寂を断ち切るようにふっと薄ら笑いを浮かべ、小さくため息をついた。
「そうだな。君達には気を遣わせてしまってすまないと思っている。」
「だからっ!俺が聞きたいのは社長のそんな言葉じゃないんです!」
それまで努めて冷静を保とうとしていたのだろうが俺の言葉を聞くと、堪えきらないように悲痛な叫び声に変わった。
かつての俺を知っている者だったら今の俺に失望するのも当然だ。
この男もかつては、俺に反抗意識を持ちながらそれでも俺に対し屈折した憧憬の念を抱いていたのは知っていた。
「俺は・・・・そんな無抜けの殻みたいな社長を見たくない・・・・」
唇を振るわせるまだ若い男を見詰めながら俺は僅かな胸の痛みを感じ、まだ自分にもこんな感傷を感じる心が残っているのかと思う。
「俺はしばらく他に場所を借りる事にする。ここはお前達だけでやっていけるだろう。」
こいつが望んでいるのはそんな事ではないと分かりながら、低い声で告げた。
「社長はもっと強い人だと思っていました。」
「そうか。でも残念だがこれが俺だ。」
「変わってしまったんですね。」
「変わった?そうか。俺は変わったか。」
「俺は社長みたいに歳をとりたくない。」
「そうか。」
最後にもう一度そいつに向き直ると「俺みたいになるなよ。」と言い残しオフィスを立ち去った。