遠くで音がする。
一面白い薄い雲のような視界。その雲の遥か遠くの方から聞こえてくる微かな音。羽が風を切るような音だ。
ブロォォ・・・・・
次第に音は近付いてくる。少しずつ少しずつ距離を縮め遠くの上空から俺の元へ・・・・
ここはどこだ。俺はどうなったのか。
ゆっくりと意識が覚醒していく。肉体を離れ彷徨っていた意識が実体のある身体へと戻っていく。
俺はゆっくりと瞼を開けた。
そこにあったのは白い病室だった。白い天井と白い壁。そして視界の隅には白い包帯に包まれた足。
何も変わってはいない。激しい動悸も割れるような頭痛ももうしなかった。
ただ違う事はこの音だ。病院のすぐ上空をひっきりなしに飛び回るプロペラ音。きっとヘリの音だろう。耳障りな音が少し遠退いたと思えばまた近付く。
病室の前の廊下の様子もいつもとまるで違っていた。普段は時折看護師が歩く音がするだけの廊下をバタバタと人が走る足音が響いている。一人や二人ではない。そして共に看護師達の切羽詰ったような声。
「こっちの病室はもういっぱいです、収容しきれません!」
「こっちも今、患者さんが床で寝ている状態です!」
只ならぬ事態である事は予想出来た。
付けっ放しになっていたテレビでは、レポーターが興奮した様子で何かを伝えている。その画面の後ろに映っているのは線路から大きく外れ、無残に横倒しになった電車だった。

――――脱線事故か
その電車はよく見慣れた車両だ。そして時折上空からの中継の映像が映ると、そこには大きな白い建物があった。

――――この病院、なのか?
この上空からの音と、周囲の様子から察するにそういう事なのだろう。
だとしたら、さっき俺が聞いた声や音は・・・電車の事故を察知したというのか?まさか。
いや、でも、そうすれば全て辻褄は合う。
『危ない』という声。あれは運転手の声だったのだろうか。
『駄目だ、もう助からない』悲痛な声がまだはっきりと頭に焼き付いている。テレビに映った電車の先頭車両。
あの様子ではきっと運転手も助かってはいないだろう。
俺はそっと目を閉じた。
ドンドン
その時突然、荒くドアをノックする音がした。「佐伯さん、ちょっといいですか?」
「どうぞ」と返事をすると勢いよくドアが開く。普段から元気の良い小太りの若い看護師が、いつになく真剣な表情で病室に入ってきた。
「突然すみません。」そう言うとチラっとテレビに目を向け、すぐに俺に視線を戻すと一気に言った。
「ニュースでの通り、この列車事故で今病院内は怪我人が続々運び込まれている状況です。緊急事態で病室が足りないんです。それで、もし佐伯さんが了承してくれるなら、明日までの1日だけ、この個室にもう一人の患者さんを入れ相部屋にさせて頂きたいんです。明日になれば近隣の病院でももっと受け入れが可能になる筈なので、1日で済みます。」
「この状況ですから、断ることも出来ないでしょう。」
「すみません、ありがとうございます!では、さっそく準備に取り掛かってもいいですか?」
「どうぞ」素っ気無く答える。
確かにこの状況では仕方ないが、決して気が進む話ではなかった。しかしだからと言って断る事も出来ない。
それから何人かの看護師がバタバタと病室に入って来ては、忙しなくベッドの位置をずらし衝立を準備した。
「あちらの患者さんも佐伯さんと同じ骨折した男性なのよ。同じ境遇同士仲良くしてね。佐伯さん、少しは愛想よくしてよ!」
看護師が、聞いてもいない話を呆気らかんと捲くし立てているうち準備は整った。
程なくしてガラガラと音を立てながら、ベッドが運び込まれる。衝立があるから姿は全く見えない。
しかし、ベッドが置かれたであろう場所は俺が考えていたものより近かった。
決して広いとは言えない個室だが、もう少し距離に余裕があると思っていたのだ。この位置でははっきりと『人の気配』を感じ、落ち着かないような気がした。
しかしそんな俺の小さな動揺などお構いなしに看護師は笑顔を向けながら言った。
「それじゃまた食事の時に来ますね。あっそうそう、もとから部屋にいた方が佐伯さん。それで、今来た方が片桐さんね。二人ともたった1日だけだけど仲良くやって下さいね!」
バタン
ドアが閉まる。
俺はその名前に動きを止めた。
そして衝立越しに、小さく息を飲む音が聞こえた気がした。