片桐?
俺は一瞬にして記憶の中の片桐の姿を思い浮かべる。
突然聞かされた苗字はかつての元上司片桐と同じだ。キクチが倒産してからその人物とは会う事もなかった。
常に他人の動向を窺うたどたどしい態度。自分が他人の罪を被り、それで周囲の人間が平穏でいられるならそれでいい、と言った優しさを履き違えた思考。それは、どうしようもなく俺の気持ちをざわつかせ苛立つかせた。そんな人間の存在など自分の中から切り捨て、空気と同じように接してしまえればよかったのにそれも出来なかったのは、片桐の姿がもう一人の<オレ>を連想させたからなのか。
そんな事を考えていると隣から声が掛けられた。
「あ・・・あの・・・・片桐と申します。今日はこんな形で病室にお邪魔してしまって本当に申し訳ありませんでした・・・」
その声に意識は現実に引き戻される。
この声は紛れもなく俺の知る片桐のものだ。恐る恐る窺うような口調。昔とちっとも変わっていない。
しかし俺はその言葉に答えるのを躊躇った。俺の声を聞けば片桐はすぐに俺が元部下の「佐伯克哉」と気付くだろう。過去の俺を知る人間にこれ以上会うのは面倒だった。
無言の俺に対し、片桐は更に気まずさを募らせたように言葉を続ける。
「佐伯・・・さん、でしたよね?やっぱりご迷惑ですよね・・・他人がいきなりこんな一つの病室にやってきてしまっては・・・
やっぱり看護師さんにお願いして別の病室に移してもらったほうが・・・」
「今更そんな事を言える訳がないでしょう。」
その時、自分の意思よりも先に片桐の声を遮ってしまった。口にしてから『しまった』と後悔する。
「っ・・!もしかして君は佐伯君なのかい?看護師さんが『佐伯さん』と言った時、まさかとは思ったけど・・・・」
その声は、単純に元部下との再会を喜ぶように聞こえ、俺はあの頃感じていた片桐へのもどかしい感情を思い出す。
「えぇ、キクチ元営業8課の佐伯です。ご無沙汰しております。こんな所で会うなんて奇遇ですね。」
棒読みのように言葉を返した。しかし片桐はそんな事はちっとも気にならないようで
「本当ですよねぇ、しかも、こんな事故が起こらなければ同じ病院に入院していたというのに会うこともなかったんですから。」などと不謹慎とも言えるような事を言う。
「本当に嬉しいですねぇ・・・また佐伯君に会えるなんて・・・佐伯君はちっとも変わっていないですねぇ。」
この衝立の向こうには顔を綻ばせた片桐がいるのだろう。
最悪の気分だった。これから明日までの十数時間、ベッドに括り付けられたこの状態で片桐と空間を共有しなくてはならないのか。
「ところで佐伯君はどこを怪我しているんだい?僕と同じ骨折だと看護師さんから聞いたんだけど・・・」
「あぁ・・・大腿骨です。」
「それは大変だっでしょう、痛かったんじゃありませんか?骨折は太い骨ほど痛いと言うから。」
片桐の、相手をいたわるように包み込む口調も昔と変わらない。
「えぇ、まぁ。」
「私の方は腰椎の圧迫骨折というやつなんです。」
『どうしてそんな骨折を』と思ったが聞くのはやめた。相手にそれを聞いて自分まで同じ質問に答えなければならなくなるのは面倒だ。この病院にいる状況を理解した時は、確かにまだ鈍い痛みを感じていた。しかし骨折した時の事は痛みの感覚さえ全く記憶にないのだ。
「もう随分とここに入院していました。歳をとると治りが遅くなるみたいで・・・・」
「そうですか。」
「佐伯君は、長いんですか?」
「・・・・片桐さん。長い入院生活で話し相手が欲しい気持ちも分かりますが、人には詮索されたくない事もある。少し黙ってくれませんか。」
自分でも、きつい口調だとは感じたがこれ位釘を刺しておかないと明日までの時間をこの人と過ごす事が出来ない。
「あ・・・悪かったね・・・佐伯君・・・僕は佐伯君とこうして会えた事が嬉しくてつい、はしゃいでしまって・・・・・」
片桐の声は哀れな位、萎れたものに変わる。
「そうだよね・・・ただでさえ、君の部屋にいきなり上がりこんだ状況だと言うのに・・・・」
「だから、それはあなたのせいではなくて・・・」
堂々巡りに陥りそうな不毛さに言葉を続けるのも面倒になり、俺は言葉を切って大きく溜息をつく。
「本当にすみませんでした・・・・」
その言葉を最後に片桐を口を噤んだ。
再び部屋はテレビの音が無機質に流れる。それからの片桐は、まるで存在自体を消そうとしているかのように物音一つ立てずにいた。
きっと身体を僅かに動かす事さえ細心の注意を払っているのだろう。時折微かに布の擦れる音がしたがそれも非常にゆっくりしたもので、俺が無意識に溜息をつくと途端、空気が固まったようにその音も止まった。
――――全く。ちっとも気が休まらない。
ちょっとした片桐の動きがそのまま片桐の感情全てを表している。向こうにとってもそれは同じ思いだろう。
心底この状況を受け入れた事を後悔していた。これが全くの赤の他人だったらまだ良かったのか。
そうするうち、片桐の方から僅かに動く気配があった。程なくして先程の看護師が現れる。
――――本気で部屋を変えるよう申し出る気か?
一瞬そう思ったが、片桐は看護師に「すみません、テレビを付けてもらってもいいでしょうか・・・?」と尋ねている。「あぁそう?分かりました。」などと言うやり取りに疑問を感じながらいると大きめの音量で音声が流れ始めた。かすかに尿の匂いがした。
あぁ・・・そういう事か。
思わずどっと脱力した。ベッドの上横になっている筈なのに、更に奥深く沈んで行くような気がする。
俺とて人事ではないのだ。
尿瓶を使い自分で用をたす事は出来るが、その時は俺もこうしてテレビの音量を上げるのだろうか――――