窓から差し込む光が次第に茜色に変わっていく。
時折外からはまだヘリの音が静寂を破りにやって来てくる。廊下では夕飯を運ぶ配膳車がカラカラと車輪の音を響かせながら近付く。
「夕御飯です、遅くなりましたぁ!」
乱暴とも言えるくらい勢いよくドアが開き看護師が夕飯を手にし入ってきた。
「どう?二人とも、仲良くやってる?」
全く、無遠慮にも程がある。
嫌味の一言でも言ってやりたかったが、それを言った所でこの状況が改善される訳でもないだろうし、一人傷付くのは片桐だ。
「あ・・・あの・・・・もし出来るなら・・・」
「えぇ、お陰で一人の侘しさから解放されましたよ。」
片桐の言葉を遮った。
「あらそう?そう言って貰えるとこっちも少しは気が楽になるわ!良かったわねー片桐さん、いいお話相手が出来て!」
なんの邪念も持たず看護師はてきぱきと配膳を整えると出て行った。
「佐伯君・・・・」
申し訳なさそうな声で呼びかける。
「なんですか。」
「あの・・・本当によかったのかい?
僕からお願いして出来るなら部屋を変えて貰った方がいいんじゃ・・・」
「まだそんな事を言っているんですか。向こうも今晩一晩限りだと言っていたじゃないですか。俺だってその位我慢出来ます。」
「そうかい・・・・」
消え入りそうな声で呟く。
目の前にはトレーの上で味噌汁が湯気を立てていた。
「早く食べないと夕飯、冷めてしまいますよ。」
「はい・・・」
それから二人はまた無言のままだった。
部屋に響くのはただ食器の音。
たべる音。
飲む音。




食事が済んでしまえばまた片桐は押し殺したように黙った。
俺はテレビで今日起きた列車事故のニュースを眺めて過ごした。
あの事故が起きた時、俺が感じたものを思い出す。激しい頭痛や動悸。流れ込んできた思考。
一体あれは何だったのだろう。予知能力の一種か。しかし俺にそんなオカルトまがいの能力まであった事はない。
まさかMr.Rの石榴のせい・・・・?
確かに他に思い当たる節はない。だが一体何の為に。
「はーい、消灯ですよ!」
九時を回り看護師によって部屋の電気が消されても、俺はその事を考え眠ることが出来なかった。
暗い部屋の中、遠くからまだ作業が続く音が響いている。鉄の響く音。それはどこか物悲しい。
その時、片桐が何か言った気がした。
気のせいだろうか。片桐が寝たのかどうかも分からない。
「嫌だ。」
今度ははっきりと聞こえた。
小さくはあるが、低く、断言するような口調。
「片桐さん?」
思わず声を掛けた。寝言だろうか?
「あ・・・ごめんなさいっ・・・聞こえてしまいましたか?」
慌てた片桐の声が返ってきた。それはいつもの片桐の声の調子だった。
「今、『嫌だ』と言ったのですか?」
普段の片桐と余りにかけ離れた口調に、多少驚きと興味を感じつい尋ねてしまった。
「あっ・・・はい・・・・いや・・・・あの、佐伯君が嫌だという訳じゃなくて・・・・
その・・・・僕の口癖なんです・・・・」
「口癖?」
「はい・・・・変ですよね・・・・嫌だ、なんて。
一人になると、無意識に言ってしまうんです・・・・でもこんな時に・・・はずかしいです」
---------嫌だ、か
きっとこの人はこの一言をいつでも胸に溜め、こんな風に一人で吐き出して来たのだろう。
誰もいない相手に向かい一人で。
またしばらく沈黙が包む。

「佐伯君・・・もう寝ましたか?」
小さく声を掛けられる。
「いえ、まだです。」
「そうですか・・・・僕も何となく眠れないんです。
年甲斐もなく恥かしいのですが、何だかまるで学生の頃の修学旅行のような気分で名残惜しいというか・・・・こんな風に佐伯君と一緒に寝るなんて、不思議な気持ちで・・・・」
「一緒と言ってもこんな衝立越しですが。」
「そうですよね・・・可笑しいですね。何だか僕、興奮しているみたいで」
はにかんだように笑っているのだろう。ふふ・・・と息が漏れる声がする。
全く、この人という人はよく分からない。
変に遠慮しすぎるかと思えば、少女のような無遠慮さで抵抗なく際どい言葉を言う。
「あの・・・佐伯君は何も答えなくていいので、僕の話を聞いてくれませんか?」
「・・・・いいですよ。どうせ俺も落ち着いて眠れやしない。」
「若い頃、子供を亡くしました。」
唐突な言葉だった。だけど片桐の口調は悲しみに暮れる風でもなく、今までの穏やかなものと変わりない。
「可愛い盛りだったのですがね・・・・私の不注意で・・・・・」
「そうでしたか。」
まるで、楽しかった懐かしい過去の思い出を語るようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「子供に先立たれるのはやはり辛いもので・・・僕は、自分が死んだ方がまだましだと、何度も思いました。でも僕は、そうして自分を責めるので頭が一杯で、妻の哀しみに目を向けてやることも出来ませんでした。自分だけが悲しいはずがないのに・・・・・結局妻とは離婚をしました。」
その言葉に、キクチにいた頃の片桐の様子を思い返す。
どこか自分の人生を傍観しているような片桐の裏には、そんな私生活が隠れていたのか。その頃の自分はそんな事を知る由もなかった。しかし知った所であの頃の俺は、何の興味も持たなかっただろう。
「ささやかだけれど、なかなか幸せだったんですけどねぇ・・・・僕にはそんなものも守る事が出来ませんでした・・・・普通の人が普通に出来ることが、私には出来ないみたいで。
きっとそれからの僕は、死んだように生きていたんでしょうねぇ。」
ただ淡々と事実を語る口調に、同情を求める気持ちは感じられない。
少しは感傷的になっているのかもしれない。
だが、こんな夜位、誰かに過去を話す事を許されてもいいだろう。
「佐伯君が御堂部長と特別な関係があった事は勘付いていました。」
突然の言葉に、俺はさすがに身を起こした。
「御堂部長がプロトファイバーの売り上げ目標の引き上げを要求した事がありましたよね。
あの後佐伯君が部長に接待してくれたお陰で引き上げは白紙になりました。
きっと佐伯君は御堂部長に特別な事をしたんだろうなぁ・・・・・と。」
思わず、隣に置かれた衝立を見詰める。この白い衝立の向こう、片桐は一体どんなつもりでこんな話題を俺にしているのか。
「驚きましたね・・・・・片桐さんは俺が御堂部長に何をしたと思われたのですか?」
「強姦、じゃないのですか?」
優しく問う声。しかしその言葉は余りに片桐に不釣合いな単語で、何の抵抗もなくそれを口にする片桐を意外に思う。
「そんなこともありましたね。」
俺は静かに答えた。
下らない邪推だ、と一笑する事も出来たかもしれない。だけどそれをしなかったのは、俺もこの夜の空気に毒されたのか。
「僕を・・・・犯してくれませんか。」
小さく息を飲む音の後、片桐は言った。