【15】




 寿也が初めてコンクールに出場したのは中学一年、今と同じ初夏の頃だった。
 初めてのコンクールとしては規模も大きく、その存在も全国的に名の知れたものだった。当然プレッシャーは重い。十三歳という年齢は、思春期へ移行していく難しい年頃だ。
 過剰になる自意識と現実の自分との間で起こる葛藤。
 それでも樫本は、敢えてその時期にその舞台を選んだ。
 寿也に対し、絶大な信頼と期待の意味を込めて。
「大丈夫だ、寿也。お前はいつも通りに弾けばいい。それだけで自ずと結果はついてくる」
 そう言って樫本は寿也をステージへ送り出した。
 町の小さな市民会館で行われる一次予選では、心の中で樫本の声を聞きながら自分を保とうとした。
「やっぱり寿君は実力が違うのね。他の子とは比べ物にならなかったわ」
 自分の装飾品を自慢するかのような母親の言葉を背後に聞きながら寿也は暗い気持ちになり溜息をつく。
-----僕は何のためにピアノを弾いているんだろう・・・・・僕のピアノに付加価値を付けて、それで周りの大人は満足なんだろうか
 言い様のない不信感が心を覆う。
 二次予選ではぐっと人数が減っていた。振るいに残った者たちは皆『上手』ではあったが、それでも抜きに出た者とそうでない者の差がはっきりと表れてくる。
 その時初めて寿也は、『取るに足りない存在』だと感じた。それまで、心のどこかで自分のピアノぶ絶対的な自信を持っていたのだ。これだけは僕は負けない。他の誰にも、と。
 しかし、初めてのコンクールという『競技』としてのピアノの舞台に立ち、ライバル達の演奏を目の当たりにした時、それまで自分を支えていた自信は呆気なく崩れていくのを感じた。
 所詮、自分は井の中の蛙だったことを思い知った。
 本選。
 華やかなステージと、美しいドレスに身を包んだライバル達の姿。
 ホールの巨大な空間の中、ステージの中央に一台のピアノが佇む。
 寿也は自分が酷く場違いな所に放り出されたような気分がした。
 吐き気がする。
 アナウンスが自分の名を告げる。
 俯くように歩き、ライトが当たる場所に立つ。顔が上げられない。客席を直視することが出来ない。
 恐る恐るお辞儀をし、椅子に座る。指が震えていたが、自分ではどうすることも出来なかった。
 そっと鍵盤に指を乗せ触れた瞬間、咄嗟にそこから指を離した。
 まるでピアノに拒絶された気がした。
------ここから逃げたい
 体の中に衝動が湧き上がる。
 いつもピアノに向かう時には、自分の体内に樫本の声が聞こえていた。寿也はただその声に従えばよかった。
 なのに。今はその声が聞こえない。
------だめだ・・・・僕は・・・弾けない
 それでも、この場から逃げる事は許されない。自分を救ってくれる者は誰もいない。
 音をならすが、弾けば弾くほど、鍵盤に触れれば触れるほど、自分の中に鳴る音を聴こえてくるピアノの音がかけ離れていく。
 音が掠れ、テンポが乱れるのが自分でも痛い程分かるのに、止められない。
-----樫本先生を失望さしてしまう
 ピアノに向かいながら、その言葉を寿也の頭の中をぐるぐると駆け巡った。
 会場のざわめきが聞こえる。
-----あぁ・・・きっと僕を笑っているんだ。「緊張しちゃって可哀想」などと言いながら、「いい気味だ」と嘲笑っているんだろう
 どんなに樫本が自分に熱意を持って指導していたか寿也は分かっていた。
 時にはその熱意の余り声を荒げることもあった。それでも寿也は樫本に対する信頼が揺らぐことはなかった。
 先生の気持ちに応えたい。
 このコンクールで賞を獲得する事。それが樫本に対する自分が出来る何よりの恩返しになると信じていた。
-------なのに・・・・僕は、先生の期待に応えられない・・・
 最後の音が消えると、寿也は逃げるようにステージを走り去っていた。
 ライバルに負けた事。環境に負けた事。それももちろん悔しかった。しかし。
------僕は、自分に負けたんだ
 それは一番認めたくない事実だった。



「寿也!」
 そのまま会場の外まで飛び出した寿也を追って来たのは樫本だった。
 耐え切れず嗚咽を漏らして泣いていた寿也の肩を掴む。
 肩の震えが樫本の手に伝わっていく。
「悪かった、寿也・・・・もっとお前に相応しい時期を考えていれば・・・・もっとお前の気持ちを考えていれば、こんなに傷付けずに済んだのに・・・・」
 唇を震わせながら、樫本は言葉を途切れさせた。
-----違う・・・・そんなんじゃない・・・・先生のせいじゃない・・・僕が弱いから・・・・
 そう心の中で叫んでも喉から漏れるのは嗚咽ばかりで、思うように声にならない。
「----ちがっ・・・・僕のせい・・・・・でっ・・・・」
「お前のせいなんかじゃない、だから、何も言わなくていい。もう----何も言うな」
 自分の無力さに打ちひしがれる。
-------僕は先生を悲しませてしまった。心配させ、苦しませ、それなのにこんな風にただ泣く事しか出来ない、きちんと謝ることすら出来ない・・・
 その日寿也は、母親に対し初めてと思える程の抵抗をした。
『家には帰らない。今日は樫本先生といる』
 母親の目を正面から見据え、低く言い放った寿也に対し、顔を引き攣らせたまま母親は言葉を発する事が出来なくなった。
 その姿を見た樫本は、寿也を自宅に一晩泊める事を申し出た。母親は渋々それを承諾した。l




「腹、減っただろう?今日は旨い物でも食べてゆっくり休むんだ・・・・・・と言っても、そんな旨い物がある訳じゃないんだがな」
 樫本は、冷蔵庫を覗き込みながら明るい口調で言った。
 寿也は心許なさげにダイニングセットの椅子に座りながら、その後ろ姿を見ていた。
 低く吊るされたランプシェードからオレンジ色の白熱灯がダイニングキッチンを照らしている。
 寿也がこの部屋に入るには初めてだった。
 玄関を入り、すぐ横の扉を開ければリビングを兼ねたレッスン室がある。普段、廊下の先に進むことはない。
 その日、会場から戻ると寿也は樫本に促され、奥の扉の向こうに足を踏み入れた。
 一人で住むには広すぎる家に、樫本は長い間暮らしていた
 成人男性が一人暮らしをしている割にキッチンは片付いてる。普段、樫本はここで料理をすることは稀なのかもしれない。寿也はどことなく生活感がないように感じ、落ち着かなかった。
 白いコーヒーポットだけが、よく使い込まれているのを物語るようにコーヒーのシミを残している。
『コンクール屋』
 樫本の事を皮肉を込め、そんな風に呼ぶ者もいた。
 事実、若くして毎年多くの生徒をコンクールに送り込み、実績をおさめていた。その名は、コンクールを視野に入れピアノを弾く者の間では知れた存在であり、その為に樫本の元を訪れる親子も多かった。
「すみません、先生・・・そんなにお腹も空いてないし、気を遣わないで下さい」
 そう言う寿也に樫本は振り返りながら笑う。
「そう言うお前こそ変に気を遣い過ぎるな。遠慮なんかするなよ?お前は変に大人ぶるからな」
「・・・はい・・・」
 冷蔵庫から取り出され、テーブルに並べられたのは高級缶詰や瓶詰めを皿に盛り付けたものだった。どれも、一人暮らしの樫本に生徒の親から贈答される物だ。
「悪いな、こんなつまみみたいなもんばっかりで。これじゃ腹の足しにならないな」
「あ、いえ・・・」
「それならついでに、寿也の敗戦祝いに一杯やるか」
 悪戯そうに樫本は笑うと、二つのワイングラスとボトルを手にし、テーブルへ来た。
「お前も今日は、少しくらいいいだろう?」
 寿也の向かいの椅子に座りながら一つのグラスを寿也の前に置くと、慣れた手つきでコルクを抜き赤黒い液体を注ぐ。
「年代物でな、結構高いんだぞ」
 そんな言葉を聞きながら、静かに量を増す液体を眺めた。
 寿也のグラスを満たすと、自分のグラスにもなみなみとワインを注いだ。
「じゃ、乾杯でもするか」
 樫本は微笑みながらグラスを持ち、寿也を待つ。寿也は釣られるようにおずおずとグラスに手を伸ばした。
キン、とグラス同士が触れ合い小さく音を立てる。
 そのままグラスに唇を付け、液体を口に含ませると渋い苦味が口いっぱいに広がった。
 思わず眉を顰める様子を見て、樫本が声を立てて笑う。
------ここに着てから先生は笑ってばっかりだ・・・きっとそうやって僕の緊張を解そうとして・・・
 液体が喉を通ると、体が一瞬で熱くなるのを感じた。そんな風に、喉からの刺激で体が変化するのは初めての経験だった。
 更に一口、液体を口に含む。それだけで喉が痺れる。
 ゴクリ、と喉の音が聞こえる。
------熱い・・・・
 頭がぼんやりしたような気がした。
-----でも、このまま熱にやられてしまえたらいいのに
「おい、寿也?あんまり無理するんじゃないぞ」
 少し慌てたような樫本の声がした。
 それでも手からグラスを離さず口に運ぶ寿也を見て、さすがに樫本も立ち上がる。
「寿也、もう止めておけ!」
 隣に駆け寄った樫本の心配そうな表情を見届けた後、樫本にしな垂れかかると寿也はそのまま意識を手放した。