触手
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【4】
「困った子ね。」
そんな言葉が耳に入る。――――近いような遠いような。
距離感が掴めない。この声は、香取だ。
夢の続きか?
ぼんやりとした意識の中、この言葉が誰に向けられたものか考える余裕などなかったが。
次第に意識と身体の感覚の距離が近付いていく。
僕は寝ていた。
ここは一体どこだろう…?
薄目を開けると無機質な天井が目に入った。
あぁ、ここは学校だ。きっと保健室だな。
でも、一体どこからが現実でどこからが現実でないのか境が分からない……。
いつものように野球部の密着取材をしていて、マウンドの香取を撮影していて、そして。
そこから先、見たものは―――――
異空間だった。
ファインダー越しに見た異空間。
しかし、この目で見た光景の生生しさがまだ全身に残っていた。
香取の舌。唐沢の苦悶の表情。
あれは僕の願望なのか―――――?
二人に対して感じていた僕の欲望の表れなのか―――――?
自分の中に、自分でも知らない自分が眠っている……
薄ら寒いものを感じながら。
――――香取の声?
その途端僕は、その声の存在があったことを急に思い出し、身体を跳ね起こした。
「お目覚めはよろしくて?」
長い睫を伏目がちにしながら、僕を見ながら香取は微笑んでいた。
僕が見ていた筈のユニフォームは既に白い開襟シャツに着替えられている。
彼のこの穏やかな口調は、誰もが安らげるものだろう。
でも僕は、何も答える事が出来なかった。
なぜなら、この人は遠い世界の人間だったから。
僕は彼の努力を知っている。その努力の上に成り立つ栄光も知っている。彼の知性、彼のプライドの高さ、誇りの高さ、しかしそれを相手に悟られないよう巧みに防御している事も知っている。
でもそれは。
あくまでファインダー越しの彼の姿であり、僕と交わる事などないはずだった。
そして何より僕自身が、それを畏れていた。恥じていた。
自分には何もない。努力も栄光も誇りもプライドも。
だから。この人の前に僕が立つ事は許されるはずがない。
「ほんと、困った子ね。
私達の取材中に軽い貧血を起こして倒れたのよ。覚えていない?
あなたの事はいつも見ていたわよ。
あなたが撮ったものも見せてもらった。
ありがとう、綺麗に撮ってくれて。」
そう言いながら彼は掌を差し伸べ、僕の後頭部を優しく撫でた。
西日も落ち、既に外の景色は紫掛かった群青に染まっている。
慈愛に満ちたその行為はあまりに自然で後頭部から伝わる大きな手の感触に意識を持っていかれそうになったが、すぐさまそんな自分の不覚さにはっとし思わず荒々しくその手を振り解いた。
――――こんな風にするつもりはなかった、つい、この人物が現実の物になるのが怖くて……
後悔する事だけはお手のものだ。
しかし、それでも尚、彼の口調は穏やかさを保ったまま言った。
「そんな風にあしらわれるのには馴れっこよ。その位なんて事ない。
それにね。私、善人には寛容なの。」
「そんなの買い被りだ。」
なぜかその言葉だけは直ぐに口をついた。
相変わらず微笑んだまま僕を見詰める香取を見詰め返す。
香取は視線を外しながらフっと溜め息を漏らす。
「そう、そうかもしれないわね。私はあなたを買い被っているのかもしれない。
だから。
買い被りついでに、あなた、『証人』になってもらえないかしら。」
そう言いながら長い睫の間から上目遣いの視線が覗く。
「証人?」
思いも寄らない言葉に混乱する。
何の証人?誰の証人?
頭の中を言葉にならない疑問が渦巻いている中、いきなり目の前を布地で覆われた。
包み込むように優しく、視界を縛られた。そしてそのまま手首を掴まれるとやはり同じように結ばれた。
全ての事柄が理解出来ないまま僕は何の選択権も与えられず、彼によって自由を奪われていたが。
そんな中、頭をさっと過ったのはあの時の唐沢の表情だった。硬質な身体を思わせる骨格、小さく鋭い眼光。そんな彼の―――――
恍惚とした表情。
その時、胸の中心が奇妙に疼いた。
自分の見たもの。
今、自分の身に起きていること。
二つの世界がクロスしながら―――――
シンクロしていく。
包まれた目や手は、香取の掌のように慈愛に満ちているように感じられた。
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