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 今でも吾郎は信じられないのだ。

 授業中の教室。ぼんやり黒板を眺める視界の中に寿也の背中が入る。

 教室の一番後ろの席を強奪し、理解の出来る訳のない形ばかりの数学の授業をやり過ごす時間。

 窓の外の空を見上げ、流れる雲を目で追ったり、こうしてクラスメイトの後姿を眺めるのにも飽きた。


 吾郎と同じようにこの時間を手持ち無沙汰に過ごす者もいるが、寿也や薬師寺などは頭を黒板に向け、指先はスラスラとシャーペンを滑らせている。きっちりと着こんだ白いシャツが微かに動く。

 その中に隠された均整の取れた肩、背中。




 一体この教室の中の誰が寿也の事を知っているのか。


 そう考えた時、胸の中心が浚われるような奇妙な感覚に襲われた。




――――こんな時に。

 思い出すなんて。
 
 あいつのあんな姿。

 誰も想像出来やしない。
 




 そう思いながら、胸に穴が開いたような感覚に焦りを感じる。

 そもそも寿也に性欲が存在する事。その事すら未だ吾郎にはいまいち実感が沸かないのだった。

 あまりに幼い頃からお互いを知っているからなのか。

 あの頃は良かった。こんな煩わしい思いを感じる息苦しさなんかなかった。

 単純に一緒に野球が出来る必要な相手。そしてそれが心から楽しいと思える『友達』。

 ライバルという環境になってもやはり友達である事に変わりはなかった。



 一体いつからだ。

 

 寿也に性欲があり、それが自分に向けられた事。

 なし崩しのようにそれを受け入れていた自分。


 どこで歯車が狂ったんだ。

 もう戻れないのか?

 寿也に対し、こんな戸惑った感情を持つ前の自分には戻れないのか。




 そう考えながら吾郎は疼いてしまっている自分の身体の一部に、絶望的な気分にさせられた。
 



 授業は滞りなく吾郎と何の接点も持たないまま終わる。

 思い思いに散った人が机の脇を通り過ぎたけれど、吾郎はそのまま座り続けていた。

「吾郎君。」


 吾郎の机の前に立つ寿也が見下ろしていた。

「あー?」

「どうしたの?いつにも増してぼんやりして。」

「何でもねぇ。」

「そう。」



 そう答えながらも釈然としない表情を作る寿也が忌々しい。

 無意識にムっとした不機嫌な表情で目を逸らす。




――――二重人格者が。



 そう簡単に、真っ当な顔とどうかしちまっている顔を使い分けるな。

 自分だけ何でもないような態度してるんじゃねぇ。




 心の中で悪態をついた。

 寿也は「あ、ちょっとごめんね。草野が呼んでいるから。」などと言い残し皆と同じように吾郎の横を通り過ぎて行った。


 思わず大きく息を吐く。



 器用に生きてんじゃねぇよ。

 勝手に人ん中、侵入して好き勝手掻き回して、そんな風に涼しい顔してんじゃねぇ。



 ガツッ。


 大きな音を立て、乱暴に机の脚を蹴飛ばしていた。





◇ ◇◇





 何もかもが癪に障る午後。

 吾郎は一人、屋上に寝そべっていた。

 自分は元来、楽天主義で物事に拘らない性格だという自負がある。

 何の疑いもなくそう過ごしてきたし、"自他共に認める"事だと思っていた。

 いや、今だってその思いに変わりはない。

 それがこの一点については自分の思うようにならないのだ。

 寿也の事を思い出す時だけ。



 そもそも今まで寿也と吾郎の付き合いは長かったものの、同級生をして学校生活を共にする事などなかった。それが一気にその距離が近付き、寮でさえ同室になり日常のほとんどの時間を一緒に過ごす。

 始めはその事が吾郎にとって重大な事柄になるなんて考えもしなかった。

 誰に対しても、例えばそれが女子だったとしても何の臆面もなく吾郎は接してきた。


 それだというのに今は。
 

 寿也に対して感情のコントロールが出来ない。

 寿也に対して身体のコントロールが効かない。

 吾郎にとってそれが耐えられなかった。



 こんな感覚がまだ他の誰かならまだマシだったのか。

 他の誰か――――例えば…

 幼馴染の顔が頭を過る。



 驚く程の無感。

 苛立ちに拍車がかかるだけの結果だった。






「僕の事でも考えてた?」



 思考を遮る声に目を開けた。寝そべる吾郎を寿也が見下ろしていた。

 こうやっていつでも無防備に人の領域に踏み込んで来る。




 いとも簡単に。当たり前の特権のように。




「……ッチ」

 忌々しげに舌打ちをした。

「ふーん、そうなんだ。吾郎君がこんなに僕の虜になってくれたんだったら、思い切って奇襲をかけたのはあながち間違っていなかったって事か。」



 そんな挑発にのる気が滅入る程イラついていたと言うのに、何も答えないのに気を良くしたのか更に言葉が続く。

「なんなら今、その欲求不満、解消させてあげようか?

 どうせ、一日中僕の事考えてたんだろ?」




 その言葉に吾郎は思わず上半身を起こした。


「気持ち悪ぃんだよ、お前、おかしいんじゃねぇのか?何で俺が、お前相手に発情しなきゃなんねぇんだっ!!」



 自分でも引く位、大声が飛び出した。それでも怯む事無く寿也は笑っている。


「吾郎君、少しは言葉を選んでよ。自分の本心、隠したいからって相手に暴言浴びせるのは幼児レベルだよ?」

「お前にはこん位ハッキリ言わねぇとわかんねぇだろ!

 それに、別に俺は自分の気持ち隠してなんかねぇ、いつでもそうやって人を上から見下したような口利くな!」





 分かっていた。

 勢いに任せ感情を叩きつけたとしても、身に覚えがあるのだ。

 そんな自分が許せなくて単にその苛立ちを寿也にぶつけているに過ぎないだけだ。




「でもいいじゃない、吾郎君には逃げ道があって。」

「何だって?」

 きつく寿也を睨み返す。

 寿也は吾郎の苛立ちなどにはお構いなしに涼しげな口調で続けた。

「だってそうだろ?君は一方的に襲われたに過ぎない。

 それも寄りによって同性の幼馴染にね。

 君は被害者で僕が加害者だ。誰だって君に同情するさ。」




 そう言い、微かに微笑みながら寿也は空を見上げた。







 その余裕が気に食わないだよ。

 自分だけ罪を被るような振りをして、俺に逃げ道を用意して。






――――だから、いいんだよ、と言わんばかりに。



 
 心地良さそうに風に当たる寿也を眺めながら吾郎は立ち上がり、寿也の肩を強引に掴みむと金網に押し当てた。

 顔を近付ける。

 寿也は目を逸らさず吾郎を見詰める。
 


 どう感じているんだ?

 お前はこの状況下、俺に何をされると思うのか?

 戸惑わないのか?

 怖くはないのか?

 俺がお前をどう思っているのか。

 気にはならないのか?


 
 分からねぇんだよ、何も。

 俺はお前が分からなくて怖いんだよ。
 


 それが気に食わないんだ。

 こんな気持ちに囚われる自分が。

 耐えられないんだよ―――――。




 至近距離に息苦しさを感じ、吾郎は手の力を弛めた。

 顔を背け、背を向けようとした肩越しに寿也の声が聞こえた。





「――――君らしいね――――往生際の悪さが。」




 冷静な低いトーンの寿也の声は何を物語っているのか。

 諦め。軽蔑。侮辱。
 


「何だと?」

 掠れた声だった。

「君は僕に欲情しているんだろ?昨日の晩の事が忘れられなくてしょうがないんだろ?

 だったら素直にそう言えばいいじゃないか。

 あからさまに態度に出すくせに、自分はあくまで関係ない振りして。

 
 土壇場で―――そうやって君は逃げるんだよ、いつでも。」



 冷静を努めようとしているような押し殺した声を聞き、吾郎は居た堪れなくなった。


 
 そうだよ、その通りだ。

 こうやって、こいつは俺の気持ちなんか手玉に取るように分かっているくせにお前が分からない自分が悔しい。

 そして、自分の気持ちからも、こいつの気持ちからも逃げ、それでも逃げられない事実をこいつの口から言わせる自分の卑怯さが悔しい。
 



 ――――もう嫌だ。

 こんな感情を持ったまま寿也と接していく自信などなかった。
 
 
 
「寿―――。」ぽつりと呟く。

「――――あんなのはよ、いつか終わるんだろ?

 あんなくだらねぇ遊びはいつか終わる時が来んだろ?

 俺はよ、普通にお前とずっと野球やっていられりゃ別に他に欲しいもんなんてないって思ってた。
 
――――だから、別にあんな事する必要なんてないんじゃねぇのか?


・・・・気持ち悪ぃんだよ。一人でお前の事考えてどうにもなんなくなるのがよ…。」


「それ、ある意味、物凄く熱烈なプロポーズにも聞こえるんだけど?」

 力の抜けた声を向けながら寿也が答える。

「バカ言うなっ!

 俺は真面目に言ってんだよ!

 そうやって何でも茶化してお前、楽しいか!」

「茶化してるつもりなんかないさ。

――――それに吾郎君は根本的に何か勘違いしてるみたいだよ。

 あれが下らない遊び?

 僕が何の迷いもなく性欲だけで君に襲い掛かっただなんて本気で思っていないだろうね?」

 その言葉に吾郎はぎょと寿也の顔を見た。

「単純だな、君は。」

 小さく呟きチラッと吾郎の方を流し見ると寿也は視線を外した。
 




 違う、そうじゃない。

 僕が言いたかった事はそんな事じゃない。

 吾郎君の言うように茶化して本題を逸らしているだけだ。

 本当は怖かった。今だって――――

 吾郎君が、僕をどう思っているのか知るのが。

 僕を恐れている、痛い程それが伝わった。

 苦しかった。

 でもそれを悟られるのが、もっと怖かった―――――



 そんな僕のちっぽけなプライドが、吾郎君を余計に追い詰めた。

逃げているのは自分のくせに、それを吾郎君に押し付け自分を正当化していた。


 僕は卑怯だ。

 欲望に従えば、それが一つのゴールなんだと思っていた。それで終わると思った。

 だから吾郎君を抱いた。

 なのに想像もしていなかった迷いや躊躇いが生まれている。気持ちも、身体も、自分も、相手も、処理しきれず持て余してしまう。
 

 そしてそれば僕ばかりじゃなかった。

 吾郎君のこんな姿――――

 こんな風に戸惑って苛立っている吾郎君を僕は想像していなかった。

 吾郎君を迷わせる事を僕は望んでいない。



――――こんなはずじゃなかった。



 寿也の横顔を見ながら吾郎は思っていた。




―――寿也の奴、泣きそうな面してやがる。


 
 いつか、何の迷いもなく当たり前みてぇにお前と抱き合う時が来るんだろうか。

 それとも、何事もなかったかのようにただの『友達』に戻っていくんだろうか。

 
 今の俺には分からなねぇ。 





ただ今は、やり切れない気持ちをお互いに抱えているのを傍観しながら、こうやって立ち竦むしかない。
 
 



 






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