trivial









 
シャワーを浴びた太一は頭からタオルを被り濡れた髪をガシガシと拭きながら、一直線に冷蔵庫へ向かう。今日レコーディングをしたばかりのフレーズを口ずさむ後姿の足取りは軽やかだ。冷蔵庫から器用に2本のビール缶を取り出し、足で冷蔵庫の扉を閉めると、そのままソファにドサッと座った。
「はーい克哉さーん、今日も一日ご苦労さまー!」
 そう言いながら、コン、と缶をガラステーブルの上に置いた。
 ご機嫌な調子の太一に、克哉は小さく視線だけを投げ掛ける。
 上半身にはタオルだけが掛けられ、派手なトランクス一枚だけ纏った姿は、いつもの風呂上りの太一のスタイルだ。
ソファに深く座り大股を開いてすっかりリラックスしている。
 克哉は、何件かメールをしなくてはならない用件が残っており、テーブルに置かれたノートパソコンから指先は離れない。ソファの前に置かれたガラステーブルだが、かつてのアパート時代からの習慣でソファには腰掛けず、ソファと向かい合わせの床に直接座り作業をしていた。
「太一。シャワーから上がったらちゃんと体拭かないとダメっていつも言ってるだろ?フローリング、またビチャビチャじゃないか」
 不機嫌ともとれる声色に、太一は自分の歩いてきた床を見ると、確かに足型の水滴が自分の元へと繋がっていた。
「あは。ゴメンゴメン」
「水分はフローリングを劣化させるんだ。この部屋はMGNからの借り物なんだぞ?こんな事で御堂さんに怒られたくないだろ」
「はーい、スミマセーン」
 太一は内心『こんな事くらいで御堂に怒られたってどってことないけど』と思いつつ形式ばかりの謝罪の言葉を口にする。
 そんな太一の反省の色のない表情を、克哉は見逃さなかった。
「口だけじゃなくて。今すぐ拭いて」
 鋭い口調で返され、今度こそ太一は駄々をこねた。
「えーいいじゃん、これくらいー。すぐ乾くってー」
「乾くまでの間に劣化するんだ。それに。」
 一度言葉を区切り、下から太一を見据える。
「ちゃんと体拭かないと、冷えて風邪ひきやすくなるだろ?太一の体はもう太一だけのものじゃないんだぞ」
 諭すような克哉の言葉を聞いた途端、太一は目を輝かせた。
「むっは〜〜、克哉さん、ちょっとそれ、大胆すぎ!そりゃ、オレの体は克哉さんのものでもあるけどさ〜〜、そんなハッキリ誘われたらオレ、のらない訳いかないじゃん」
 太一は大仰に手を広げ熱烈な抱擁を求めるジェスチャーをする。しかし、それを見る克哉の視線の温度差は激しい。
「太一。そういう事じゃなくて。オレは太一のマネージャーの立場として言ってるんだ。太一に倒れられたら、オレ達のバンドはどうにもならないんだぞ」
 冷静なその声に、太一の腕はみるみる下がっていく。と同時に太一のテンションもぐんぐんと落ちていった。
「なにそれ、克哉さん、オレの事、商売道具としてしか見てないってこと?」
「そんな事言ってないだろ!ただ、太一にはもうちょっと自己管理をしっかりして欲しいんだ。ちゃんと体拭いて、って言ったのだって、今日が初めてじゃないんだし」
 確かに克哉の言葉通りだった。二人で一緒にニューヨークで暮らしていた頃も時折克哉はシャワー後、ろくに体を拭かない太一に注意したことはあった。
「だけど、こんなきつい言い方なんかしたことなかったじゃないか!実際、こんなことで風邪ひいたことなんてないし。オレは克哉さんが思ってるよりずっとタフなの!」
 完全に不貞腐れた口調で続ける。
「なんだよ、せっかく今日はいいフレーズが出来て調子よくレコーディング進んだってのに。克哉さんだってスタジオじゃ、すっげー喜んでたじゃないか。オレ、うちに着いたら克哉さんと一緒に乾杯しようと思ってたのにさ……」
 拗ねた表情の太一に、ようやく克哉はパソコンを閉じると少し溜息をつきながら言った。
「太一がオレの事待っててくれたのは分かってるよ」
 克哉は視線をチラッとテーブルの上に移す。そこにはビール缶が表面から水滴を流し、ガラステーブルを濡らしていた。
 太一はいつもシャワーから上がるとその足で冷蔵庫から缶を取り出し、その場でプルトップを空けるとゴクゴクと喉を鳴らす。だが今日は、こうして二人分の缶を手に、ソファにやってきた事は克哉もとっくに気付いていた。
「ただオレは、太一にちゃんとオレの話しを聞いて欲しいんだ。どんな些細な事でも、適当に流さないで真面目に聞いて欲しい。確かに今まではそんなにきつくは言わなかったけど、状況はどんどん変わるんだ。太一は今まで以上に自分を大事にしなきゃ駄目なんだよ。オレだってこんな下らない小言は言いたくない。だけど太一の事が大事だから、こうやって心を鬼にして言ってるんだ」
―――本当は、太一が言ったように浮かれたまま乾杯できれば良かったのかもしれない。だけど、やっぱり太一本人にちゃんと自覚を持った生活をして欲しい。オレがちゃんと太一に言わなければ、他の誰が太一にこんな事を言えるか。
「克哉さんの心配性」
 そっぽを向いたまま小声で呟いた太一の声はまだ拗ねているようだった。意固地になった太一は性質が悪い。それまで機嫌が良かっただけに余計、頑なになってしまったかもしれない。
 しかし。
「でもオレ、こんなに克哉さんに心配してもらえるなんて、オレ冥利に尽きるな〜〜〜〜〜」
 コロッと変わったご機嫌な声色に、克哉は思わず力が抜けた。
「何だよ、その『オレ冥利』って」
「う〜〜ん、やっぱ克哉さんに愛されてるんだなーって感じ?克哉さんの愛のムチ気持ちいい〜〜、オレ、クセになりそー」
 そう言いながら太一は立ち上がり、首に掛けていたタオルを手にすると四つん這いになって濡れたフローリングを拭きとっていく。
 全く悪びれる様子のない太一の背中を見詰めながら『全く、これだから』と呆れる。
――――ま、これが太一のいいところなんだけど。
 そしてまた、克哉の胸には安堵にも似た気持ちが入り混じっていた。
――――太一は分かってないんだろうな。こんな些細ないざこざを重ねて、少しずつオレが出来上がっていくことを。オレがこんな風に他人とぶつかるなんて事、太一に出会う前はなかった。いつでも自分の胸の中に言いたいことを押し留めて『これくらい仕方がない』って諦めてた。そうやって逃げてばっかりで……
「おわったー!どう克哉さん、キレイになったでしょ?」
 晴れやかな笑顔で太一は振り返る。
「そうだな。ありがとう、太一」
「へへー、じゃ克哉さん、ご褒美ちょーだい」
「全く。しょーがないな」
――――でも、本当は分かってるのかもしれない。こうやって太一はいつでもオレを引き上げて、オレの中身をうめていくんだ。
 ぴったりと克哉の隣に座った太一の唇に軽くキスをする。何度この行為を繰り返しても、初めて唇を触れた日のような幸せな気持ちになれた。
「じゃあさ、改めて、今日のお疲れの乾杯でもしましょっか!」
 ウインクしながらビール缶を差し出す太一から、ほんの少しぬるくなったそれを受取った。




fin.