【1】


 今年1年は望むものはなさそうだな・・・・・・

 ふとそんな考えが頭を過ぎり、無表情のまま掲示板の前を通りすぎた。


『担当教授告知』

 講師茂野吾郎の欄に佐藤寿也の名前はあった。


 総合掲示板のある校舎を抜け、男子寮への細い坂道を下る。

 両脇に木々が立ち並び新緑の葉が茂っていたが、ここ最近の春の陽気が途絶え今日は薄暗い雲が覆っている。



 彼に関していい噂を聞いた事がなかった。


 「若手講師」と呼ばれる中でも彼はその1番手だろう。経歴も他の講師陣の中では特殊だった。

 国内最高峰の芸術系大学付属高校を1年で退学、単身ハンガリーに渡りそこで国立音楽院に乗りこみ半ば道場破りのような形で奨学金を受ける契約を取り付けたらしい。


 そういうとまるで、実力があり型にはまらないグローバルな人物のような印象を与えるが、実は相当エグい事もやってきている・・・・・。

 海外で単身音楽で身を立てることは容易ではない。今でこそ東洋人への偏見は昔に比べたら大分なくなってはいるが、それでも日本人の演奏に対して端から聴く事すら無駄だ、と考える人間も根強く残っている。

 その中で無名日本人が生き残る方法、自らの体を提供するような事も平気でやってきた。
 
 そんなセンセーショナルな話題に学生達が興味を示さない訳がなかった。何処までが事実で何処までが虚像か分からないような話が学生の間を行き来した。

 それは茂野の際立った容姿のせいもあったのかもしれない。彼のそんな姿を想像してしまうほどの惹き付ける眼差しや佇まいがあった。


「僕には関係がない。」


 あえて寿也はその言葉を低く口に出した。どんな講師が担当になろうと、僕は僕だ。これまでもずっとそうしてきた。

 大学入学当時。これでやっと自由になれると思っていた。受験の為のピアノから開放されると思っていた。その年の講師は『中堅』と呼ばれる年代の女性だった。