【2】
「あら、随分綺麗な顔した子が来たのね。」
初めてのレッスン。
グランドピアノが2台並べられたレッスン室に入ると部屋の中に掛かっている鏡の前に立っていたその女は開口一番に言った。
唇には赤い口紅が塗られている。指には幾重にも指輪が重ねられ、その中の緑色の大きな石に寿也は無意識に目を留めていた。
この台詞を何の躊躇もなく言った相手が僕の事を見てくれた試しなど一度もない。僕の表面の皮しか見ていない。
早くも軽い失望感を味わっていた。
「佐藤寿也君ね、これから一年間どうぞよろしく。」そう言って寿也の前に近づくと右手を差し出す。空気の気配と共に香水の甘い匂いが鼻についた。
「あ、よろしくお願いします。」寿也は少し戸惑いながら、その右手を握り返した。指輪の固さに違和感を感じる。
「ふふふ、あなた、そんな顔して、ろくに女の手も握った事がないでしょ?益々気に入ったわ。磨き甲斐がありそうね。それじゃ、何か聴かせて頂戴。」
手を離しそう言うとツカツカとハイヒールの音を響かせ椅子に座り足を組んだ。
もはや、失望は絶望に変わっていた。
寿也はのろのろとピアノに近づくとゆっくり椅子に座った。目の前の鍵盤をじっと見詰める。
あの曲を弾くのはやめよう、心の中で呟いた。受験が終わり、長く付き纏った課題曲からやっと開放され、自分の弾きたい曲を弾く事が出来る。
いつか弾きたいと願っていたけれど、あまりに曲が大きすぎる為、先延ばしになっていた憧れの曲だった。
合格発表のあったその日、やっと封印していた楽譜を開いた。
・・・・・今、弾く価値はない。この女に指導してもらう価値は。
寿也は受験課題曲だったショパンエチュードを弾いた。もはや、自動演奏のように感情を伴わなくても指は動いた。
演奏を終えた寿也に女講師は低い声で言った。
「・・・・・そう。お上手ね。今の演奏であなたが私に対してどう感じたかよく分かったわ。
あなた、そうやっていつまでも人を拒絶していくつもりなの?」
顔を前に向けたまま寿也は無表情で呟いた。
「あぁ、伊達にここで中堅張っている訳ではないんですね。」
その言葉の後の彼女の逆上振りを寿也は遠くの世界を眺めるように見ていた。
『扱いにくい生徒』。
それ以来、寿也はある意味自由になった。
どの講師もある一定以上の熱意や期待を寿也に向ける事がないのを肌で感じていた。
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