【10】
それは何の変哲もないただの音階。かつて10才だった寿也は、その1小節を容易に弾いた。
単音を弾く時には意識を指先に集中することが出来た。その瞬間ピアノと肉体が一つになる感覚を味わう。
だが、曲を構成する為に、それを連続させようとした途端、その感覚を保つことが出来なくなるのだ。
確かに体内に掴んだはずの感触はいとも簡単にするりと指の間から零れ落ちる。寿也は愕然とした。
激しい焦りに頭は混乱し、鍵盤から指を離し指先を凝視する。
また、僕は見失ってしまうのか?また、自分を信じられなくなるのか?
――――否、違う。
僕は逃げない。今、この手に、この指に感じる僕自身の肉体から目を背けない。
小さく唇を動かした。
「もう手放さない。」
寿也は目を閉じ、手を膝の上に置くとゆっくりと息を吐き出す。
再び、目を開けると真っ直ぐに前を見据え、ゆっくりと鍵盤に指を乗せた。
――――――もう一度、始めよう。
戦いを挑もうとする寿也の横顔を陽が染める。
曇りのない音が一つ、空間を埋めた。
それからのレッスン室は、時間の流れ方が変わってしまったかのようだった。1秒が果てしなく長い。
寿也によって歪められたその時計の秒針は這うように進む。
寿也は全神経を身体の一点に向けようとしていた。油断をすると、呼吸をすることすら忘れてしまう。
茂野の存在も寿也の中から消えていた。
しかしそれ程までに意識を研ぎ澄まそうとしてでも、長い年月を掛けて培ってきた自分の演奏スタイルを変える事は容易ではない。
ほんの一瞬の僅かな時間、意識が途切れただけで、指先の感覚はいとも簡単に消え、意識よりも曲の構成に意識を取られてしまう。
『感覚』より『思考』が身体を支配する。
そして、その時初めて茂野の存在を認知することが出来た。
言葉を発するのではない。ただ、茂野の周囲の気配が揺らぐのだ。言葉よりも激しい茂野の気配が寿也に迫り、寿也は我に返る。
――――まるで炎だ…・
その気配の中思う。静かに、絶えることのなく真っ直ぐ立ち上る青い炎。
その炎が寿也の僅かな集中の途切れに瞬時に反応し、大きく揺らぐ。
――――炎…・あぁ、だからこの人には誰も近づけないのかもしれない。
そう思った瞬間、再び寿也の胸に小さく痛みが走る。
まただ……僕の思考を無視し、心臓が誤作動する。
それでも、思考を振り払い意識を指先に向けると、ピアノを弾き続けた。
「そこまでだ。」
突然茂野の低い声が寿也の思考を遮る。「時間だ。」
寿也は我に返ったように顔を上げ時計を見た。額には薄っすらと汗が滲んでいる。
しかし、心地良い脱力感と充実感が体を包み、無意識のうちに表情に笑顔が浮かんでいた。
「あぁ、もうそんなに時間が経ったんですね。」
茂野は答えない。
――――僕も先週までは茂野に対して、敵対心を露にしていた訳だし仕方がないのか。課題を用意されていただけ良かったと思わないといけないのかもしれない。
楽譜を閉じると茂野に体を向け「有難うございました。」と型通りの挨拶の言葉と共に軽く会釈をすると、寿也はレッスン室を後にした。
オレンジの陽と黒い影に縁取られた廊下に寿也の長い影が伸びていた。
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