【11】



6月。

6限後のこの時間は季節の移ろいを景色に映し出す。
レッスンを終えた寿也は、初夏の葉の匂いを深く吸い込みながら、緑に囲まれた校舎の小路を歩いていた。

「佐藤!」
後ろから呼び止められ振り向くとそこには去年、同じ門下生だった薬師寺が立っていた。
寿也は足を止め薬師寺を待った。頬を掠める夕風が心地いい。
薬師寺の長い髪もその風に揺れている。

「あぁ、薬師寺、久しぶり。最近なかなか会えなかったよね。」
「佐藤、お前、大丈夫なのか?」
線は細いが、その声は意思の強さを物語るように芯がある。
「いきなりどうしたんだい?大丈夫、って一体何のこと?」
「茂野のレッスンだ、お前ちゃんとレッスンされてんのかって聞いているんだ。」
「あぁ、それだったら今ちょうど終わったところだけど?」
「その内容が問題なんだ、お前の練習の様子がおかしいってもっぱらの噂だ。お前、4年になってからまともな練習をしていないんじゃないのか。」

もともと人数の多くないピアノ科の男子だ。寮生である者はお互いの情報は何処からともなく伝わっていく。
寮生達は授業が終わった後、練習室を借り一人篭ることがほとんどだが、壁越しや廊下越しにその音はほぼ筒抜けになる。
お互いの状態は嫌でも耳に入った。そして、その環境は少なからずもお互いを意識させ向上心、いやライバル心を刺激するものだった。
 寿也はレッスン以外の練習でも、インヴェンションを弾く事を止めなかった。それまでの高い難易度の曲を弾く事を一切止めた。
寿也が弾くその曲は、明らかに学園の練習室から流れる音から浮いていた。
寿也は思わず声をあげて笑った。
「そうか、端から見ると今、僕はそんな風に映っているんだ。」
「笑い事じゃない、元同門としてちょっとは心配してやってるんだ。お前があんまり無茶な事をするから…・・
破門なんかされて・・・・・・。」
薬師寺は語尾を濁した。

薬師寺の言葉に寿也は数ヶ月前の記憶を呼び起こす。

―――――そうだ。あの時僕は、何と戦っていたんだろう。

『扱いにくい生徒』
寿也に対する講師陣の評価は変わらないままだったが、それを差し引いても寿也の持つ技術的なテクニック、聴衆の心を掴むテクニックは一目置かねばならない存在だった。

毎年、年度末になると学園内で演奏会が催される。それは各学科から選ばれた数名の生徒が出演するコンサートで、担当講師による推薦、更に学内オーディションによって選出された者のみがそのステージに乗る事が出来た。事実上の、その年の学園の代表者だった。
そしてそのステージ上に、寿也は立っていた。

高い天井から照りつけるライトの熱が寿也の皮膚に突き刺さる。
――――――意外と熱いな
他人事のように感じる。

薄暗い客席をぼんやりと眺めた。
僕はここで何をしようとしているのだろう。この人達は僕の何を見ようとしているのだろう。
僕のピアノが聴きたい?本当に?
この手垢にまみれた僕のピアノを?

レッスンという名の元、僕の形はどんどん歪められていく。
修正液を塗られ、書き換えられ僕の姿から離れていく。

何で今までそんな事に疑問を抱かなかったのだろう。
樫本先生・・・・・・・
僕がピアノを弾く意味は何ですか。
これから先、僕がピアノを弾き続ける事に何の意味があるのですか。

答えのない客席に向かい寿也は問い続けた。

虚ろな目のまま椅子に座る。
僕が今、ここですべき事。僕が今出来る抵抗。

鍵盤に触れた指から発せられた音は寿也の前途を否定するものだった。
プログラムにない題名。
オーケストラの鳴る事のないピアノコンチェルトを寿也は一人、弾き続けた。

その行為によって引き起こされた事態は寿也の考えるものより大きかった。
「生徒の独断によるプログラムの急変」はすなわち「担当講師への裏切り行為」であり「講師の監督不行き届き」は学園の名誉に関わるものだった。
寿也は担当だった助教授から破門を宣告された。しかし、そのように学園の内外まで影響を及ぼすような状況であっても破門程度で済んだのは、寿也の演奏が一定の評価を得てしまった為だろう。
そんな「反逆者」に対し、救いの手を差し伸べようとする物好きな講師はもういなかった。
年度が変わると茂野がこの学園に赴任してきた。

「曰く者同士、うまく宛がわれたって事か・・・。」
俯いたまま笑う寿也に薬師寺は溜息をつく。そのまま一呼吸つくと寿也に向かい言った。
「お前が好き勝手やるのは構わない。だけど、無理をするな」

寿也は反射的に顔を上げた。不意に薬師寺から真っ直ぐ向けられた視線とぶつかる。
「――――そうだね。…ありがとう。」
自虐でも卑下でもない。淀みなくその言葉は口をついた。
「今更、お互い友情ごっこなんて柄でもないだろう。俺はお前の事をライバルだと思っている。お前のピアノには負けたくないだけだ。誤解するな。」
そう言い残すと薬師寺は寿也に背を向け、練習室の並ぶ棟へ歩き出した。
その後姿を立ち止まったまま目で追う。

 あの演奏会での推薦最終選考は寿也と薬師寺に絞られていた。
助教授は寿也を選んだ。

―――――学園や教授等を裏切る事などはどうでもよかった。ただ、あの瞬間。あのステージを見た瞬間。
薬師寺はどんな思いをしただろう。

「君は結構、強いんだね…。」
軽蔑してもおかしくない、憎んだとしてもおかしくない。そんな僕に対し薬師寺は、これまでと変わらず向き合った。

―――――――もう僕は大丈夫だから

しばらく、寿也はその背中を見送っていた。