【12】



寮での夕飯や風呂も済ませ、寿也は自由な時間を一人、練習室で過ごしていた。
それ自体は寮生達ではごく日常の事だったが、もうすぐ長い夏休みに入るこの時期、
それぞれの故郷に帰る準備が忙しいらしく、こんな時間にここを訪れる者は少ない。
日が延び1日が大分長くなったと言っても、もうすっかり外も暗い。

「――ふぅ」
長い溜息をついて寿也は椅子の背もたれに仰け反るように凭れると、天井を見上げた。
蛍光灯の眩しさに思わず目を閉じる。
――やっとここまで辿り着いたんだ
インヴェンションとシンフォニア全30曲、全て弾き終えた。

この数ヶ月間、寿也はこの曲集を最後まで弾き切る事だけを目標に過ごしてきていた。
この曲集を全て弾き終えた時、自分の中で何か変わるのではないか、という期待のようなものが生まれていた。

確信があった訳ではない。
ただ、長いトンネルの中を走りながら、いつか見えてくるだろう出口の光を求めるような気持ちだった。

―――――自力で、ここまで辿りつけた

しばらく味わう事がなかった開放感、心地よい疲労感に身を任せる。
閉じた目にも眩しい蛍光灯の光が、まるで新世界に達した光の眩しさのような錯覚を起こし、
そんな自分の昂ぶった感覚さえ可笑しく、上を見上げたまま声を立てて笑った。

茂野とのレッスンは相変わらず続いていた。
一人寿也はバッハを弾き、茂野は黙ったままそれを聴く。
ただ、少し……いや、大きく変化した事。

寿也が弾くピアノの隣で茂野は大あくびをする。さも退屈そうに大仰な伸びをしながら。
――――――――挙句には。居眠りをする。

曲を弾き終えた寿也が、隣で腕を組んだまま船を漕ぐその姿を初めて見た時はさすがに我が目を疑った。
いくら聴いているだけ、と言っても勤務中だろう…・・しかも、ここは仮にも音大だぞ…・こんな事で高い授業料を取っていいのだろうか。
怒り、と言うより、呆れる…・・いや、既に新種の珍獣でも発見したような気分だった。
一体これはどうしたものかと溜息をつきながら、大きく胸を上下させながら寝息を立てる茂野の姿を眺めていた。

しかし、それと同時に心に、ある感情が過る。
寿也はその時、『許された』と思った。
『もうお前は俺の「監視」がなくとも大丈夫だ』
無言の茂野は寿也に向かいそう言っている気がした。

冷静に考えれば、このポリフォニーの音楽は、左右の10本の指全て平等に音が行き渡る配音で出来ていた。実に均等にバランス良く。
そして美しい旋律の30曲中に全ての調が網羅されている…・と言う事は12音の平均律の鍵盤、隈なく触れていくという事だ。

バッハが、幼い自分の息子の為に書いたこの小品集。

――――そうか、茂野がこれを選んだのは息子を再教育するためか
茂野の仏頂面を思い出し、思わず顔が綻ぶ。

自立への再教育、か。
これでやっと僕はスタートラインに立ったのかな……

そして…・いつか、茂野と肩を並べられる日がくるのかな。



□□□



しばらく余韻に浸っていたが、そろそろ寮に戻ろなくちゃと、寿也はえいっと背筋を伸ばすと、
目の前のピアノに置かれた楽譜を丁寧にカバンに仕舞った。ピアノの蓋を閉じ立ち上がる。

蛍光灯のスイッチを切ると、もうすっかり廊下の明かりも消され、暗い直線が浮かび上がっていたが、ひとつだけ明かりが漏れる部屋があった。
廊下に出た瞬間、耳に入ったのは練習室から漏れるバイオリンの音だった。寿也は思わず、ぴくりと体の動きを止める。バイオリンと共に絡み合うピアノの音。
―――――この曲はヴィターリの『シャコンヌ』だ

引き寄せられるように寿也はその部屋に近づいた。ドアの小窓に目をやると、そこから見えたのはピアノに向かう薬師寺とバイオリンを構えた眉村の姿だった。

――――やっぱり

眉村の事は寿也も知っていた。科は違えど、眉村もまた学内の演奏会に選出された首席バイオリニストだった。直接会話らしい会話をした事はない。
たまたま薬師寺と眉村が一緒にロビーにいる所を通り掛り、薬師寺に紹介され、挨拶を交わした程度だった。
言葉少なで押し殺したような低い声、鋭い視線の持ち主の眉村を寿也は自分とは相容れない存在だと思ったが、彼のバイオリンを聴いた時、初めて彼を理解したような気がした。

眉村に言葉は必要ないのだ。
彼のバイオリンの音色は雄弁だった。
時には荒々しく弦の雑みを残し、時には実直なまでに張り、揺るぎ無く響く弦の音はその全てが眉村の感情の表れなのだと寿也は思った。

ドアに背を向けるように廊下の壁に寄り掛かり寿也はその音色に耳を傾けていた。
薬師寺のやや線の細いピアノと眉村の音色の調和が心地良い。目を閉じる。

薬師寺はソリストよりも伴奏者向きなんだよな。

特に眉村とのアンサンブルは………

そう思ったとき、突然、壁越しの音楽はぱたりと鳴り止んだ。