【13】
音楽の流れを遮るような突然の静寂。それは寿也の予想しないものだった。
訝しげに振り返ろうとした寿也の耳に入ったのは押し殺したような僅かな薬師寺の声だった。
「お前、やっぱり…・・卒業試験の曲は」
「バッハのシャコンヌだ。」
低く返す眉村の声は、初めてその声を聞いた時と同じように、何の感情も持たないように聞こえる。
「無伴奏か。」
「ああ。」
「もう決めたのか。」
「そうだ。」
「どうしてだ。」
「――――――」
「どうしてだと聞いている。」
眉村は答えない。
「俺のピアノが邪魔か。」
寿也は咄嗟に身体が強張るのを感じた。
その声の悲痛さに思考は混乱する。
―――――まるで悲鳴だ。
こんなに静かな人の悲鳴をこれまで聞いたことがなかった。
「そんなんじゃない。」
「だったらどうしてだ。」
「お前の事とバイオリンの事は関係ない。」
「俺には関係がある。」
「―――――」
「俺には関係があるっ!」
感情を声で表す事のない薬師寺の突然の荒げられた口調に寿也は思わず息を飲む。
しかし、それはやはり喉を振り絞るような押し殺された声に変わっていた。
「俺はお前のバイオリンを支えたい。俺のピアノで…・・お前の音の全てを支えたいんだよ…
それを願うのは、俺の一人よがりなのか?
俺だけの身勝手な思い上がりなのか?」
痛い程の沈黙だった。
壁越しに感じる二人の張り詰めた空気を背中に感じながら寿也は息を潜め動けない。
剥き出しにされた他人の感情を肌で感じる。
心の痛みが身体に直に伝染する。
あぁ、これは楽器の話ではない
必要とされない音。必要とされない気持ち。
それはあまりに残酷な決断だ。
沈黙を破ったのは眉村の声だった。
「―――――お前のピアノに頼れない。」
「やっぱりお前は…」
言いかける薬師寺の言葉を眉村の声が遮る。
ゆっくりと言葉を拾い選ぶように眉村は言った。
「違う、そうじゃない。――俺は、お前のピアノがあると、自分が自分でいられなくなる。」
「どういう意味だ。」
「お前にピアノに支えられ、お前の音に頼って、いつのまにか俺はお前に甘えている。
このままでは自分が弱くなるだけだ。もう流される訳にはいかない。」
「ふざけるな!ふざけるんじゃない・・・・・・・
そんなちっぽけなプライド気取って逃げるつもりか?それは弱さじゃないだろ、話をすりかえるんじゃない!
そうやって結局お前は俺から逃げているだけだ。強がる振りをして、本当は俺からも、自分からも逃げているだけだ!」
「そうかもしれない。逃げなのかもしれない。だが、今の俺のままではお前と演奏する事は出来ない。」
眉村はその決意を変える事はないのだろう。
寿也ですらそれを感じた。
「――――そうか、わかった。もういい。」
ガタン、と椅子を引く音と人の立ち上がる気配を感じても寿也はその場から動けない。
寿也の横のドアが開き、光が漏れると同時に中から薬師寺が姿を現す。
その場に立っていた寿也と不意に視線がぶつかり、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに顔を背けると薬師寺はそのまま無言でその場を立ち去って行った。
どの位の時間そこにいたのだろう。
まるで体が重力に引き摺られていくようだった。黒い廊下の中に同化していくような感覚が襲う。
もう、そこに音はない。
のろのろと寿也は振り返り小窓から部屋の中を見ると、弓の手入れをする眉村の後姿が目に入った。
――――憐れだな。
その背中を見詰めながらふとそんな感情が浮かぶ。
傲った気持ちではなかった。
それは、眉村の気持ちが決して理解できないものではなく、だから余計にそう感じたのかもしれない。
せめて。
せめて……僅かでも眉村がバイオリンの音色程、自分の感情に従う事が出来たのならこんな風に自分で自分を追い詰めるような事をせずに済むのに……・。
いや、違う。
こうして自分の感情を押し殺そうとするからこそ、彼の音色はああも語ろうとするのか。
そして薬師寺は訴えかける眉村の音色を聴き、感情を身体で感じている。
それじゃあ、いつまでたっても堂堂巡りだ……・。
惹かれていくの気持ちは仕方がない事だ。
求めてしまうのは仕方がない事だ。
なのに、どうしてこの感情はこんなにも痛みにしか繋がっていかないんだ………。
やっとの思いで重力の呪縛に逆らうように寿也は歩き出した。
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