【14】





「お前な。そんなに弾く気がないんなら、今すぐここを出て行け」
 はっ、と不意を突かれ寿也は顔を上げる。
 譜面台の隙間に映る自分の顔がやけに間が抜けて見えた。
 あの夜から。
 壁越しに薬師寺と眉村の会話を聞いた夜から寿也の胸の中に重い塊のようなものがあり、無意識にそれを吐き出そうとしていた。
 気が付くと長い溜息を漏らしている。講義の最中も食事の最中も、こうしてピアノに向かう最中でも。
 しかし何度繰り返したところで、体の中からそれが浄化されることはない。
-----何をやってるんだ、僕は
・・・こんな状態でピアノに向かっていたら茂野は一体なんて-----
 一瞬の間に思考が体内を駆け巡る。
-----い・・・いや、ちょっと待て
 今、茂野が僕に話し掛けたんじゃないか?
 慌てて大きく振りかぶり、顔を茂野へ向けた。
 そこには白い長袖シャツの袖を肘まで捲り上げ、腕を組んだまま寿也を正面から見据える茂野の姿があった。
 突然の形勢に思わず狼狽する。
-----そうだ、今はレッスンの最中で、僕はそんなことも分からなくなって・・・
 茂野とは週に一回、このレッスン室で同じ時間、同じ空間を共有していたが、これまで互いに視線を合わせる事などなかった。
 今、目の前にいる茂野は髪の先さえ微動だにしない。
 伏目がちだが、強い意志を持った視線が全霊で自分に向けられているのを感じる。
-----しまった・・・こいつの前で隙を見せた
 身に着けた処世術として、他愛ない悪態をついて切り返す事も出来ず、寿也は茂野から逃げるように視線を外した。
 しかし茂野の言葉はその後を追う。
「お前は、どうしたいんだ」
 一瞬、何について問われたのかさえ理解出来ずその言葉を心の奥で反芻する。
『僕はどうしたいんだ?』
-----僕は・・・
 薬師寺と話をしないといけない。
 あの夜、図らずも眉村との会話を聞いてしまった事をきちんと謝らないといけない。
 いや、それだけじゃない。
 僕が言いたいことはそれだけじゃない気がする。
 慰めたい?
 違う。じゃあ何の為?
 ----そうだ。
 僕は薬師寺の言葉が聞きたいんだ。
 聞いてあげたい。そんな生ぬるい友情の感情じゃない。
 きっと僕が、僕自身のために薬師寺の言葉を聞きたいんだ・・・

「決まったのか」
「決めました」
 自分でも意外な程言葉は淀みなかった。
「すみません。今日はこれで失礼します」
 寿也は椅子から立ち上がり、楽譜を手に取るとそれだけを言い茂野に背を向けた。そして振り向きもせずレッスン室を足早に立ち去った。
 バタン、という音を聞きながら茂野は寿也が後にしたドアをぼんやり眺め苦笑した。
「あいつ、やるこたぁ立派な不良音大生だよなぁ。まぁ、そう見えないところが余計むかつくけど」
 もそもそと頭を掻きながら低くこぼす。
「しょうがねぇな・・・」
 深く息を吐き出すと、茂野は立ち上がり部屋の窓を開けた。
 白いカーテンがはためき一気に風が流れ込む。
 眼下には鮮やかな緑が萌え揺れている。
 思わず目を細めた。
「もう夏か・・・・・・日が長ぇ」
 風と共に外気から音達が流れ込み、耳をくすぐる。
 薄目を開けながら頬に当たる風を感じていたが、その顔からは僅かな笑みが消えていた。
「俺も決めねぇとな」
 無表情のまま、何の意味も持たない言葉のように呟いた。


□□□


 風が背中を押す。
 突き動かされるように、一つの想いに任せ足を進ませる。
 校舎を出た寿也はまだ日が高い小路を大きく息を弾ませながら歩いていた。
 何かに急かされるように、髪を頬で掠めながら辺りを見回す。
 確かな手がかりがある訳ではない。いつかこの時限の後、薬師寺と出会った場所。それが唯一の望みだった。
 今じゃないと駄目だ。
 根拠もない確信だけが体を支配する。
 寿也はその小路の分岐点に立ち止まった。寮へ向かう路、正門へと向かう路。確かここで声を掛けられたはずだ。
 軽く体が汗ばむ。
 何故、こんなに人のことに拘るのか。自分でも理由は分からなかった。
 他人のいざこざ、争い、ましてや色恋沙汰なのに口をはさむ事など、愚かで卑下すべき事だと思っていた。いや、今だってその想いに変わりはない。
 だからと言って、こうして薬師寺を捜し求めている自分は、何なのだと問われれば明快に答えることなど出来やしない。
 その時、流れる風と共に長い髪をそよがせる姿が目に入った。
 その人物は寿也の存在を確認すると、動きを止めた。
-----やっと会えた
 あの日から、寿也は薬師寺の姿を無意識のうちに探してはいた。
 寮にいる時でも、校舎でも。しかしまるで寿也を避けるかのように薬師寺は姿を見せなかった。
 寿也は自ら薬師寺の方へ近付いた。
「何の用だ」
 感情を押し殺すようだが、明らかにその声は寿也に対し好意的なものではない。
「僕は君に謝らないといけない」
「あぁ。お前にあんなのぞき趣味があったとはな」
「何の弁解の余地もないよ。事実、僕は君達の話を聞いてしまった訳だし」
「だったら話すことなんてないだろう。お前が盗み聞きした話、あれが全てだ。
 それとも何か、わざわざ俺を追い掛け回して嘲笑うつもりか」
 冷やかな視線と共に言葉を吐き捨てる。
「待ってくれ、そんなんじゃないっ、君をそんなつもりで探していたんじゃない!
 どう言ったらいいのか、正直自分でもどうしてだか分からないんだけど・・・・・もしかしたら。
 君の事を人事だって思えない気持ちが僕の中にあるかもしれないから・・・・」
 出来るだけ、偽りのない気持ちを伝えたい、と思う。
 今、自分に伝えられる気持ちだけは、訴えたい。それだけを思い薬師寺を見つめる。
 ふっ、と張り詰めていた息を漏らしながら薬師寺はうつむいた。
「・・・まったく。お前もよく分からない奴だ。
 お前が悪戯に人を弄ぶような人間じゃないって事くらい俺だって理解している。
 ------何を期待しているのか知らんが、そんな大層なものじゃない。見ての通り、他愛ない痴話喧嘩だ」
 寿也は、慌てて頭を振った。
「いいんだ・・・・僕はいつでも戦う事から逃げてここまで来てしまったから。
 君達が正面から向き合って、本音をぶつけ合う姿が、もしかしたら羨ましかったのかもしれない」
 耳に届く自分の言葉を聞きながら、そうだったのか、と感情が後からついてくる。
「人事だな」
「ごめん・・・・そんなつもりじゃ・・・・・」
 くるりと寿也に背を向け、ゆっくりと歩き出した薬師寺を慌てて追った。
 校舎への路には三人程座れる石のベンチがある。薬師寺はそこへ座った。少し離れ、寿也も隣に座る。
 木陰のせいか、ひんやりとした石の感触が布越しに伝わる。
 空を見上げながら薬師寺はしばらく何かを考えているようだった。寿也も同じように流れる雲を見上げながら薬師寺の言葉を待つ。
「どうでもいいことなんだよ、あいつが何を弾こうと」
「うん」
「別に俺の伴奏なしでやることだって構わない。
 結局は俺の我侭だからな。卒試の曲に託けてあいつを縛ろうとした、俺の我侭だ」
 まるで、自分に向ける言葉のようだった。
「でも。眉村は君を求めていない訳じゃないんだろ?」
「あいつの事は分からない。何を思っているのか、何を感じているのか。
 ただ、あいつの音を聴いている時だけは、全ての気持ちが俺に向けられてると思えた。
-----まぁそれも俺の勝手な買い被りなのかもしれないがな」
 そう言う薬師寺は、少し自嘲していた。
「眉村と・・・・寝たの?」
 反射的に体を弾かれたように薬師寺は寿也を振り返り、大仰に呆れた顔をする。
「お前、突然、口調も変えずによくそんな事が聞けるなぁ。・・・・お前のそういうところが怖いんだよ、何を仕出かすか分かったもんじゃない」
 しかし、やはり真剣な面持ちで見詰める寿也に「参ったな」と呟きながら答えた。
「あぁ、寝た。俺は自分の中の衝動を止められなかった。でも、それでもやっぱり、俺には分からなかった。
 あいつがどこまで俺の気持ちを受け入れているのか。俺をどう見てるかも」
「その事実をそのまま素直に受け止めることは出来ないの?眉村を君を受け入れたんだろ?それは紛れもない事実なんじゃ---」
「言い切れるのか、お前に?
 体の繋がりなんて一時的で何の確証もないものだろ。欲にほだされて熱に浮かれて、残るものは根拠なんかじゃない。
 虚しいんだよ・・・・そんなものは」   

 その瞬間、つん、と胸の奥が痛んだ。長い間忘れていた傷の存在。もう瘡蓋の痕さえ分からないのに。
 知っている。
 その空虚さ。その儚さ。
 そうだ。確かな証なんてなかった。
 言葉も、行為も。
 全て一時の熱情だった。