担当講師が告知された数日後、寿也は樫本の自宅を訪ねた。
この時期、新しい講師が告知されると樫本に報告する為に会いに行く事が毎年の習慣になっていた。
かつて子供の頃は毎週レッスンに訪れたこの部屋。大学に入ってからと言うものはこの報告の時くらいにしかこの家の門をくぐる事はなくなっていた。
何も変わらない・・・・。
寿也はこの部屋へ足を踏み入れ、見渡すと懐かしさと一種の清々しさを感じるのだ。
大きなガラス窓から光が射し込み白い壁に反射している。その横にはよく手入れのされたグランドピアノが佇んでいる。
樫本がいたから。この部屋に来たから。寿也は今までピアノを弾く事を続けてこれた。樫本と出会う事がなかったらもうとっくにピアノを弾く事を止めていただろう。
母親に連れられ、初めてこの家を訪れたのは小学校4年の新学期が始まって間もない頃、それまで習っていた音大を出て数年の若い女教師から紹介された為だった。
それまでのピアノは寿也にとって数あるお稽古事の一つに過ぎなかった。
与えられた宿題をこなし、レッスンに行き丸をもらう、その繰り返しだった。それに何の面白さも見出せなかった。
しかし「寿也君には才能があります、だから私なんかではなく、きちんとした先生についてレッスンをした方が良いと思います。私の力では寿也君の力をこれ以上引き出す事が出来ません。」
という教師からの言葉から寿也のピアノとの関係は変化していった。
樫本のレッスンは幼かった寿也にとって驚き、感動、、これまでに感じた事のない興奮を味あわせた。いかに聴く者の心を掴むか、どうすればそれが出来るのか。
様々なテクニックを彼は寿也に伝えていった。そして寿也もそれを忠実に守っていた。
寿也はピアノに向かう時、ステージに立つ時、いつでも樫本の言葉を頭の中で反芻させていた。
「ここはまだフォルテを出してはいけない、堪えて観客を焦らせ。」
「ここからクレッシェンドだ、迷わず一気にいくんだ。」
樫本の声が聞こえる、そしてその通りに指を動かす。
樫本の言葉に間違えはなかった。
「どうだ、最近の調子は?」
樫本は二人のコーヒーをテーブルに置くとソファに座りながら寿也の顔を見た。
「えぇ、相変わらずです、何とか留年しない程度にやっています。」そう言うと寿也は屈託のない顔で笑った。
こんな言葉さえ、樫本の前では自嘲や卑下でなく言え、こうして笑っていられる。
テーブルを挟み向かいのソファに座っていた寿也は「あ、頂きます。」とコーヒーに手を伸ばし、口をつけた。
「そうか。お前がそう言うのなら安心していいんだろう。
ところで、今年は誰になった?」
ゆっくりとカップをテーブルに置きながら寿也は答えた。
「茂野吾郎です。」
茂野吾郎・・・・・・?
帰ってきていたのか・・・・・・・。
樫本は瞬時に数年前のステージを思い出した。
あれは確か茂野が高校を中退する前の頃だっただろう、とあるコンクールの一次予選会場。
コンクールのステージの雰囲気とはそぐわない身形で舞台に現れた茂野の姿を見て会場は騒めいた。
白いシャツのボタンは上3個まで外れ、裾をひらひらとさせていた。茂野は客席に向かってお辞儀もせずどさっとピアノの前の椅子に座るとじっとそのまま微動だにしないまま時が流れた。
沈黙を破り再び彼が動き出した時。会場は沈黙に変わった。
プロコフィエフのピアノソナタ第6番、通称「戦争ソナタ」。
その時、樫本には確かに見えたのだ。
戦場で血を流し倒れる兵士達の光景。そして自らも血を流し立ち竦む茂野の姿が。
結局その予選を一位通過したにも関わらず、茂野は結果を待たずハンガリーへ渡ってしまった。
そうか、奴は日本にいるのか・・・・
「先生?」
寿也の声に樫本は我に返った。
「先生は茂野吾郎を知っているんですか?」訝しげに寿也は樫本の顔を見た。
「あぁ、昔一度だけ、ステージを見た事がある。
・・・・寿也、お前、奴に飲み込まれるなよ。」
その言葉に一瞬寿也は表情を曇らせたが、すぐに笑顔に戻り言った。
「大丈夫です。僕は僕ですから。」
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