【4】



寿也はレッスン室の前に立っていた。
茂野吾郎との初めてのレッスンの日。
このドアの向こうに、あの男がいる。

『・・・・・・奴に飲み込まれるなよ。』
樫本の言葉が脳裏を過る。

樫本のあんな不安定な表情を見た事がなかった。
なぜ、先生はあんな言葉を言ったのだろう。
僕の中には常に先生の言葉が生きている事を、先生が一番理解してくれていると信じているのに。

言いようもない胸騒ぎが寿也を襲う。

寿也は固く目を閉じ、静かに息を吸いこんだ。
迷う事はない。これまでと一緒だ。
僕は変わらない。
相手が誰であろうとも。

深く息を吐き出し瞼を開けると、寿也はゆっくりとそのドアを開いた。

西日が射し込むその部屋に彼はいた。
ピアノの前の椅子に凭れかかるように座り目を閉じていた。
ボタンのはだけた白いシャツと黒いスラックス姿の彼は長い手足を無造作に放り出している。
最終6限の西日は茂野の体をオレンジ色に染めていた。
・・・この男が。
感情はそれだけだった。だが体が動かない。
寿也はその場に立ち尽くしたままその光景から目を逸らせずにいた。
それは一瞬だったのか、長い時間そうしていたのか解らない。

それでも次の瞬間、樫本の言葉を低く呟いた。「飲みこまれるな。」

「失礼します。」
寿也はレッスン室のドアを閉じた。
茂野は動かない。
つかつかと寿也はもう1台のピアノに近づくと譜面台に楽譜を置いた。
茂野の方には顔を向けず椅子に座ると、指を鍵盤に触れる。

誰がここに居ようとも関係ない、これが僕のピアノだ。
寿也は鍵盤を下ろした。

寿也はそれを苦しい曲だと思う。
次々に痛みが襲うようだと感じる。

考えるんだ・・・・痛みを
この痛みをどう表現するか

強弱のコントラスト
間合い
音色の対比
今、必要なものはなんだ?

ソナタの秩序ある形式。
それらを繋ぎ合わせ構成していく。

最後の和音が消えた後。
寿也は深い溜息をつき、天井を見上げた。
「それで終わりか?」
静寂に包まれた室内に茂野の低く通る声が響いた。

「・・・・・あぁ、聴いていたんですね、興味がないのかと思っていました。」
寿也は茂野の方に顔を向けた。

「興味?あぁ、ないね。お前がどう弾こうと俺には関係ねぇ。」
「ここまであからさまだとやり易いのかやり難いのか判らないですね。」
笑いが込み上げてくる。大丈夫だ、きっとこのままここでの時間をやり過ごす事が出来る・・・・・・。
寿也の中に安堵に似た感情が沸き、緊張の糸が解けた時。

「お前さ・・・・ピアノ、抱いた事ないだろ」

茂野は呟いた。