【5】


あまりに理解を超えた言葉というものは、かえって人を冷静にさせるものなのかもしれない。
「ピアノを抱く」
茂野の口から出た、挑発ともとれる言葉に寿也は軽く腹立たしさを覚えた。

「あなたは噂通りの人だったんですね。
スキャンダルなんて所詮、暇な人間のくだらない戯言だと思っていましたから、少しはあなたに同情していましたけど、
どうもあなたはそれ以上の人みたいだ。」

「噂?あぁ、つまんねぇ話だ。どうしてこう馬鹿ばっかりなんだろうな。
嬉しくって反吐が出そうだぜ。
でもまぁ、そのお陰で誰も俺には近づかない。
有難い事だと思っているよ。」茂野の声は半ば吐き捨てるようだった。
「今時ここまできっちり悪役を貫いてくれる人も珍しいですね。むしろ潔よさを感じますよ。
せっかくだから僕はあなたとの時間を楽しむべきかもしれないですね」
茂野は体を起こし、初めて寿也に顔を向けた。
「そうだな。お前はそんなお馬鹿さんじゃないってことか。
だったら話が早い、俺はお前に教える事は何もねぇ。お前は俺から教わるつもりもねぇ。
それだけだ。」
再びピアノに向かった彼はそのまま鍵盤に触れ、ゆっくりと降ろしていった。

それは、寿也が弾いた曲だった。
空気が小さく震える。
茂野の体の動きと共に。

突如訪れる静寂。

再び揺らぐ空気・・・・・・
そして、一気に大きな波が押し寄せ寿也の体を覆った。

空気に飲みこまれていく。
呼吸が出来ない。
酸素のない水中に放り込まれたようだった。
体が囚われるような感覚が襲う。
その音は感情よりも早く本能に届くようだった。
好き、や嫌いの次元を遥かに超えている、その空間にいる者に抗うことを許さない圧倒的な彼の意識。

これが僕が弾いた曲と同じ曲だっていうのか?
こいつはピアノを抱いているっていうのか?
これが・・・・・これがこいつのピアノなのか?

茂野の音が消えた後、寿也に残っていたのは激しい敗北感だった。

「・・・・・・・・・・あなたは・・・・・
今、抱いたんですか・・・・・・・ピアノを」
口から出たのは純粋な疑問。自分の理解を超えた感覚への疑問だった。
「あぁ、抱いたぜ、お前には分かんねぇだろうな。

俺はこいつとセックスしたんだよ。」
そう言い、ニヤっと笑いながら寿也に顔を向けたとき、反射的に寿也は立ち上がり、レッスン室を飛び出していた。