【5】
激しい動悸が寿也を襲った。
「狂ってる、狂ってる、あいつは・・・・・狂ってるんだ・・・・・。」
校舎を走り抜けた。
憎悪のような感情が体を支配する。
奴の存在を消してしまいたい、僕の中から消し去ってしまいたい。
ただそれだけを願い寿也は走り続けた。
夜になっても寿也はどうしても眠る事が出来なかった。体は空洞の様だと言うのに目だけが冴えて、眠りに落ちる事が出来ない。
ベットの上から天井を見上げる。
頭からは茂野のピアノの音が離れる事がない。振り払おうとしても止めど無く鳴り響く音楽。
そして茂野の言葉。
自分の頭が自分でコントロール出来ないもどかしさにおかしくなりそうだった。
これは、「飲み込まれた」という事なのか?
たった一度・・・・・・
たった一度奴のピアノを聴いただけで、たったあれだけの会話で僕は茂野吾郎という男に飲み込まれてしまったと言うのか?
無意識のうちに強く爪を立てた。腕に赤い爪痕が残る。
こんな痛みでこの頭の中の音を消し去る事が出来るのなら血を流すまで爪を立てるのに。
寿也は立ち上がり、寮の部屋を出た。
ここで体を持て余していてもきっとこのまま朝を迎えるだけだ。
曇った夜だった。特に行き先が決まっていた訳ではない。ただ体を彷徨わせたかった。
音大の敷地内を歩いた。
緑に囲まれた敷地はひっそりと息を秘め、全てを拒絶しているようだった。
夜のこの景色は昼間の校舎の様子とは全く違う。音が無い。
昼間のこの空間はいつも何処からか音が流れてくる。管の音、弦の音、肉声・・・・・・・。
校舎の外から聞くそれらは決して交じり合う事はない筈なのにどこか調和がとれているように感じる。
寿也はその秩序のない音の羅列を聞くと何故か心が落ち着くのだった。
「静かだな・・・・。」
立ち止まり校舎を見上げる。夜の空気を吸い込む。
こうしていると自分以外の存在に支配されていた体が、少し落ち着きを取り戻していくのを感じた。
寿也は突然ぴくりと肩を震わせた。
音?
微かに音が聞こえた気がした。
こんな時間に?馬鹿な。
目を閉じてみる。
でもやはり微かに聞こえてくる・・・・・これはピアノの音?
でも、音楽ではない、唯の音。一つなっては消え、また次の音がなっては消え・・・・・。
一体なんだ?
寿也は微かになる音を探しに歩き出していた。
そういえば学校に伝わる怪談があったな。
レッスンについて行けなくなった学生が練習棟の最上階の部屋から飛び降り自殺をしたって。
夜中、事件があった部屋でその曲を弾くと霊が現れる。
確かショパンエチュード「木枯らし」だったっけ。
せっかくだから今晩弾いていこうか。
まさかこの音は霊の仕業だって言うんじゃないだろうな。
少し笑顔が漏れていた。
肝試しのような昂揚感が心地よかった。
少しずつ音に近づいていく。
寿也はレッスン室が並ぶ校舎の中にいた。
暗く長い廊下を歩く。外灯からの光が唯一の明るさだ。
一つ一つ教室の前を通り過ぎていく。
そして、その部屋の前で寿也は足を止めた。
「ここだ。」
音は続いていた。拙いほどの単音。
でも、その音は何の曇りもなく澄んでいる。
寿也はゆっくりとドアを開けた。
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