【7】



どうしてこいつなんだ。
寿也の冒険はその時幕を閉じた。

明かりの消えた薄暗い部屋は外からの微かな光で、白鍵だけが青白く反射している。その色は何処か生々しささえ感じさせる。
ピアノの前に座り鍵盤に触れていたのは茂野だった。
暗がりの中、茂野のシルエットだけがくっきりと浮かび上がる。
左腕は肩から真っ直ぐ下に落とされだらりと脱力している。その指先にも黒い影が縁取っていた。
茂野は右手だけを鍵盤に乗せ、人差し指を沈ませた。

重力に逆らう事のない、余計な物の一切省かれた純粋な打鍵音が青白い空間に広がっていく。
それは水紋のようだった。音楽ではない、唯の音の雫。
茂野の指は沈めた鍵盤から動かない。持続する音はその空間を隙間なく潤した後次第に減衰し消えていく。
僅かな音が消え無の空間に戻った後、再び隣の鍵盤を静かに下ろした。
空間は茂野の指先とピアノから発するその雫達で満ちていた。
壊される。
脳裏を恐怖に似た感情が襲う。
部屋のドアを開けた瞬間からその場に立ち尽くしていた寿也の全身に、生まれて初めて「破壊」という衝動が走っていた。
この空間の中で、僕は溺れ、こいつに壊されていく。その前に、その前に壊さなくてはいけない、そうしないと僕はこのままここから出る事が出来ない。道は二つに一つだ。

寿也は激しい足音を立て茂野とピアノに近づいた。
茂野の右腕に触れてもそのまま強引に押し退けると自らの十本の指全てを鍵盤に叩きつけた。
ガラスが割れたかのような激しい破壊音が空間を切り裂く。
水面は掻き乱され水飛沫を上げる。
この男にこのまま僕が壊されていくのは許せない。そんな事ならいっそ自分の手で全て壊してしまえばいい。
茂野は動かない。
不協和音が響く中、じっと前を見据えている。
どうしてお前は動かないんだ、何故僕を咎めない?何故僕を見ない?
寿也は鍵盤から指を離すと茂野の肩を激しく鷲掴み体を引き寄せ唇に自分の唇を押し当てた。