【8】
乾いてる・・・・・・・・
あれ程潤っていた空間だった。
今、この触れている唇から伝わるのは乾き。絶望的な程干上がり、罅割れている。
心のないキスをする事がどんなに愚かか。
その行為がどれだけ自分を追い詰めるか。
頭では分かっていた気がする。
目を開けていても閉じていても視界に入るのは唯の闇。
目の前のこの男すらその闇の塊に過ぎない。
角度を変えながら、その塊に指を這わせ、唇をぶつけていく。
触れれば触れる程ざらついた感触が身体を付き纏う。
こいつを。
こいつの世界を壊してしまいたい、再生しようのない位まで、何処までも。
そう願ったはずだったのに。
壊れるのは茂野ではなく僕自身・・・・・・・・・
一体、人は何処まで墜ちていけるんだろう・・・・・・・
時間も空間も全てここから無くなればいい。僕を浚っていけばいい。
寿也はきつく目を瞑った。
それは突然の事だった。寿也は急激に現実の世界に呼び起こされた。
茂野は突然寿也の右手首を荒々しく掴むと、自分の胸元に引き寄せたのだ。
「何をするんですか!」
目を見開き、強い口調で感情が口を割る。
「黙れ、お前の言葉は必要ない」
その言葉の静かな凄み、その視線の鋭さに、寿也の体は強張った。
・・・そうだ、今の僕は自分の感情を言葉にすること事すら出来ない。自分の感情をコントロールする事すら・・・・・・・・・・
張り詰めていた心と体は急激に弛緩してく。
力無く茂野の体に凭れ掛かかった。
茂野はそのままゆっくりと自分の左手を近付け、五本の指先全てを寿也の指先へ合わせた。
「黙って目を閉じろ。そのまま、指先の感触を感じろ。
お前の指先には触覚があるだろ、無数の点の集まりだ。その一点一点で感触を確かめろ。」
触覚・・・?
この指先に感じるもの・・・・・?
言われるままに寿也は目を閉じた。
柔らかい。
その質感を感じた時、寿也は僅かに鼓動が波打つを感じた。
骨格のしっかりした手をしているのに、この指先はこんなにも柔らかく弾力がある。そして、この温度。
茂野の体温。温かさと言うより熱さかもしれない、こいつの指先はこんなに熱を帯びているのか・・・・・・
あとは何がある?・・・・・全て感じろ、僕の全ての意識をこの指先に感じろ・・・・指先の感触を全て脳に繋げるんだ・・・・
それなのに不意に訪れるのは、まるで自分の指先が失なってしまったかのような脳の誤作動。
茂野の指先と自分の指先が一つになってしまい、何処までが自分の体か解らなくなる錯覚。
違う、意識を保つんだ、僕の指先の感覚を手放すな・・・・・・・。
僅かな面積の内なる感覚のせめぎ合い。
目を閉じ、体を静止させたまま寿也はその感覚と戦っていた。
しかし、茂野は不意に手首から手を外し、指先を離す。
目を見開き呆然とした寿也に茂野は言った。
「鍵盤に触れてみろ。そしてそのままゆっくり降ろすんだ。」
茂野は椅子から離れると寿也の肩を掴み、そっと其処へ座らせた。
寿也は言われるままにそっと鍵盤に手を触れる。少しひんやりとした温度と滑らかな感触で頭が埋め尽くされる。
ゆっくりと指を鍵盤に沈めた。
・・・・・?
何だ、この感触は。
鍵盤を降ろしながら、感じた感触。
・・・・弦に触れた?
指に触れた鍵盤を通じてハンマーを伝い、弦に触れた瞬間を感じた?
それに今?・・・・・・指先が震えているのか?
いや違う、震えてるのは僕の指先じゃない、振動が・・・・・・・
弦の振動が指に伝わってくるんだ。
そのまま鍵盤に触れ続けると次第に振動が弱まり音が減衰していく。僅かな震えが止まった。
寿也は一つ一つ、鍵盤を降ろしていった。十本の指全て、一つ一つゆっくりと。
息使いだ・・・・・・細かい周波数の振動を全ての指に感じる。
僕の指先が鍵盤を通して、弦を伝い、ピアノと繋がっていく・・・・・・共鳴していく。
どうして今まで気がつかなかったのだろう、この感触、この声に。
寿也は鍵盤から指を離し、その指を見詰めた。
「・・・・・・・一つになれたか?そいつと。」
穏やかな声だった。。
「・・・・・。」
言葉にならない。唯、自分の体内に感じた新たな触覚の余韻を味わっていた。
「それがお前の体だ。今感じたのは他の誰でもない、お前だけが持つお前の感覚だ。
研ぎ澄ませ。そして自分を信じろ、自分の身体を。」
・・・僕の身体・・・・・・僕の感覚
今まで、こんなにも感じた事があっただろうか、当たり前のように存在する自分の肉体。
それをこんなにも愛しく感じた事があっただろうか。
「・・・・・・しかしピアノってのは哀れな奴だよなぁ。こんなでっかい図体してやがるのに、たった数センチしか触れ合えない。
だから俺はこいつの全てをこの指で受け止める、俺が抱きしめてやる。」
あぁ、この人は愛しているんだ・・・・・・・・ピアノを。
そしてピアノに愛されて結ばれている。
僕は。
目を逸らしていた。
拒否していた。
ピアノから。
そして自分から。
僕と茂野のピアノの違いが始めてはっきり分かった。
しかし寿也は不思議と穏やかな気持ちでそれを受け止めていた。
再び寿也は指を鍵盤に触れた。
・・・抱いて、いるのかもしれない
何の澱みのない感情が身体の何処からか染み出してくる。
・・・・このまま抱いていたい
身体から涌き出る純粋な欲望。
「もう少し、ここに居ていいですか・・・・・?」
俯いたままぽつりと言った。
「好きにしろ。」
茂野は窓辺に立ち、黙って寿也に背を向けた。
外気の色が薄っすら白むまで、寿也はピアノの前に佇み自分の体内の音に耳を傾けていた。
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