【9】
あの夜の出来事を、寿也は何気ない時間の隙間に思い出した。
午後の日差しに包まれる。柔らかい光が窓際の席に座っていた寿也をの髪、睫を暖めた。長かった現代音楽論の講義が終わり、
ノートをしまいながら友人と他愛もない会話を交わす。シャーペンを片付けようと、ふと視線を落とした瞬間。
何の前触れもなく鼓動がひとつ波打つ。
あの夜、確かに僕は一度壊された。
あの男の存在に溺れ、壊れ、飲み込まれた。
そしてそのまま、この手にあるもの全てを手放そうとさえした。
目を背けていた思い。一体いつからだろう。自分を守ろうとする事と同じ位、僕は自分を捨ててしまいたかった。
いつでも僕は自分の死に場所を探していたのかもしれない。
それなのに、僕を壊し、僕の裏側を曝け出させた張本人は、僕が全てを捨て去ることを許さなかった。固くこの手首を掴み、僕を引き戻した。
寿也はじっと手を見詰める。確かにあの瞬間宿った感触。もうずっと彼方に忘れていた想い。
ピアノに触れるこの指を愛しいと感じる。ただ単純に自分の肉体を愛しいと思う。同時にそれは自分自身をもう一度愛そうとすることだ。
あの時、僕は忘れかけていた大事な意識を確かに取り戻した。
それでも寿也は体内に記憶された感覚に小さな眩暈を覚える。
強く握られた手首の痛み。指先に感じた小さな脈。そして、唇に残った温い感触の残骸。
・・・・・茂野の感触だ
その存在の生々しさに記憶を呼び起こされ、途端に体は身動き出来なくなった。呼吸をすると胸が痛む。
僕はまだ飲み込まれたままなのだろうか。
□□□
その日の6限。
茂野とのレッスン日だった。
「失礼します。」
このドアを開けるのは2回目だ。
部屋の様子は先週と何ら変わりはなかった。部屋に差し込む光の色も、椅子に座ったまま目を閉じ、動かない茂野の姿も。
・・・やれやれ。
呆れたように思ったが、寿也はその横顔を少しほっとした面持ちで見詰めた。茂野が先週と変わらぬ態度を取る事に安堵を感じた。
もし茂野があの夜について少しでも思い当たる態度を取れば、寿也は動揺を隠すことが出来かったかもしれない。
しかし、一抹の不安も過る。この状況で一体レッスンは成立するのだろうか。常識の逸脱したこの人間は先週はっきりと宣言した。
「俺はお前に教える事は何もねぇ。」と。
複雑な思いを抱いたまま寿也はピアノに近づく。
「あ」
思わず、小さく声が漏れた。寿也のピアノの譜面台の上には1冊の楽譜が置かれていた。
『J.S.Bach Invention』
・・・バッハのインヴェンション?
この本は小学5年の時に終わらせた。そう、樫本先生に変わってから初めて渡された楽譜。
初めて本格的にポリフォニー音楽に触れた思い出の曲達だ。同時に二つの旋律を把握し支配しなくてはならないこの曲集に、ホモフォニーの感覚に
慣れきった寿也は初めての挫折を味わったのだ。初めてピアノが自分の意のままにならないもどかしさを知った。そしてそれを征服したのだ。樫本と共に。
この第1番を、左右のメロディーの絡み合いを感じながら弾き切った時の樫本の笑顔を寿也は忘れることが出来ない。
「ようやく寿也のものになったな。」
「・・・・はい。」
少しはにかんだ寿也はそれでも嬉しさを隠し切れずに樫本に笑顔を返した。
その瞬間、寿也はバッハの音楽が好きになった。
どうしてこれを今更。
訝しげに茂野の顔を凝視する。
茂野の瞼が開く。ゆっくりと顔を寿也に向け口を開いた。
「それを弾け。
但し、テンポは全て60以下だ。それ以上、上げるな。」
60以下?通常のほぼ倍以上のテンポだ・・・・・・・尋常じゃない。
それでも、寿也は楽譜を開き椅子に座った。
茂野の言葉全てを無条件に受け入れるつもりはなかったが、全てを拒絶しようとする心は消えていた。
始めのCの音に指を置き、ゆっくりと沈める。
・・・・・あぁ、これだ。
指先に伝わる振動、打鍵の感覚。
あの夜の事がはっきり脳裏に浮かぶ。ほの暗い空間に広がった僕の音。甘い感傷さえ感じた。しかし、すぐに意識はこの空間に引き戻された。
続かないのだ。
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