触手
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【3】
いつのものようにファインダーを覗く。
一眼レフのピントを彼に合わせる。
マウンドの中心で一人、真っ直ぐに立つすらりとした全身。
胸の前で祈るようにグローブを構える。
空気を斬る前の一瞬の静寂。
僅かに指先が動き出した瞬間と同時にシャッターを切った。
時間は動き出す。
カシャッ――――カシャッ――――
コマ送りのように僕の脳裏にその姿が焼き付いていく。
球が離れる瞬間の長く整った指先。
斬るように放たれる一点の球。
背中の上で撓る束ねられた長い髪。
暑さのせいからなのか、小さな穴から覗く世界はまるで船酔いのような感覚を呼び起こしていた。
カシャッ―――――カシャッ―――――
耳障りなシャッター音は続く。
バッターボックスのバットは空を切り、唐沢から返された球を捕りながら小さく頷いている。
その小さな穴から見える映像だけが世界の全てのような拘束感に、眩暈と吐き気がしたがそれでもそこから覗く事を止めなかった。
僕は自分が何の為に、彼等の姿を追っているのかもうよくは分からない。
広報という名目で何の疑いもなく連日彼等に密着していたが、気持ちの上でそれが度を越した関心になっている事は自覚している。
言葉にすれば『執着』というものになるのだろうか。
もちろんそこに何らかの理由があるのかもしれないが、一体それが何なのかは分からない。
簡単に考えれば、他の連中と変わらない「野次馬」や「高みの見物」位のものなのかもしれない。
いや、それよりももっと性質の悪いもの。
――――あぁ、これがパパラッチ、と言うものか…
ぼんやりと思ったが「いや、別に僕はこれをネタにして飯を食う訳じゃないし、彼等に介入したいとも思わない。あくまでもこのカメラ越しの世界の中の事だ。」と言い訳を考えていたりする。
そう、僕はあくまでも「傍観者」だ。
そんな事を考えながらなおも、シャッターを切る音は続いていた。
その時ようやく異変に気付いた。
――――変だな。こんなに連続撮影出来る筈はない…
そうだ、さっきから止めど無くシャッターを切り続けている。とうにフィルムなどなくなっているはずだ。
すると、次第にその音は頭の中で大きくなっていった。纏わり付くように頭の中に響き渡る。
酷い耳鳴りみたいだ。
それでもその穴から覗く事から逃れられない。
僕は凝視する。
マウンドの中心。
穴の中から覗いた場所から香取と視線がぶつかった。そこから彼は僕を見ていた。
馬鹿な。
いや、確かにレンズ越しの僕の眼を見ている。微かに艶かしく上がる口角。
その端からちろりと小さく舌が覗いたような気がした。
いや、そんな筈はない。目の錯覚だろう。なぜならその舌は赤く、細く、まるで蛇の舌のようだった。
背中に視線を移す。一つに束ねられた長い髪。手入れの行き届いた美しい黒髪だ。艶やかに輝き、既に色は黒を通り越し深い碧のように見える。
揺れる碧…まるで生きているように。
意志を持ったように……
いや―――まて――――。
生きているよう?
いや、あれは確かに生きている。
あれは髪なんかじゃない。
揺れ、撓り、絡まる――――枝?
柳の枝だ―――――
気付いた時には。
目の前には違う光景が広がっていた。
香取の背中からみるみる長い枝が伸び葉を広げる。一目散にそれが向かう先は唐沢の体だ。
枝先はその体を探るようにするすると肢体に絡みつく。螺旋を描くようにしながら腕、脹脛から太腿に這いながら茶色い枝と碧に光る葉が両足全体を被う。
僕はただ、その光景を目の当たりにしながら立ち尽くすだけだった。金縛りにあったように体が動かなかった。
これは性質の悪い夢だ。そうだ。余りに現実離れしているじゃないか。
でもこの生々しい臨場感は一体なんだ。
毛穴から嫌な汗が染み出すのが分かる。喉が乾き貼りつきそうだ。自分の体でないような浮遊感もある。
そうしている間も、尚も枝の動きは止まらない。更に先端は行き先を探しながら唐沢の体の上を這い回っていた。
そしてそのまま絡みついたのは唐沢の喉元だった。
ゆっくりと枝は滑るようにそこに巻き付いていく。
唐沢の表情が苦悶に歪む。首に血管の筋が浮かび上がってくる。
そのから這い出ようと体を強張らせているが、そうすればそうする程、撓る枝は強く食い込み、圧迫された皮膚が赤らんでいた。
まずい。
そこだけは駄目だ、殺してしまう。
止めないと。早くこの状況を止めないと。
-----違う。
こんな現実がある筈がない。これは虚像だ。
このレンズの中でだけの世界だ。
ひとたび、僕がこのファインダーから目を離し、シャッターから指を離し、本物の自分の目でこの光景を見たら、この悪夢は終わる。ただそれだけの事。
だから―――――
早く、この手を離して。
この指を離して。
自由の利かない体を振り切り、動こうとした瞬間。
僕の目に入ったのは唐沢の視線だった。
唐沢は僕を見ていた。
苦しそうに細く短い息を吐く口元。
虚ろに細められたその目は。
紛れもなく、快楽に歪んでいた。
ぞくりと全身に鳥肌が立った。
嗤っている。
僕を嗤っている。
彼等は僕が自分達に執着している事を知りながら泳がせているんだ。利用しているんだ。
自分等の玩具にする為に。
乾いた嗤いが漏れる。
僕がここにいる理由がやっと理解出来た。
――――玩具か。
そう思いながら、大きく頭が揺れ、身体が傾いていくのを止められなかった。
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