taxi
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【1】
もうタクシーを待つ行列もなかった。
当たり前のように待っていたその一台に吾郎は乗り込んだ。
バタン
ドアが閉まった途端隔離された空間になる。
「取りあえず出てくんね?」
ぶっきらぼうに告げる。
ちくしょう、あの女。
体の回りに纏わり付くような感触を振り払いたい。
既に何の感情も残っていなかった。
始めのキッカケだって女からの一方的なものだった。
『女なんていてもなくてもいいけど』『断るのも面倒だったし』『抱きたくなれば抱けたし』。
取留めのない文章が頭に浮かぶ。
いつから恋愛なんかしていないだろう。
仕事を始めてからか?忙しかったから?余裕がなかった?
じゃあ、それまではどうだった?
確かに女が切れたことはなかったが。
「好きだ」と言う。
「愛している」と言う。
キスをする。
セックスをする。
ただそれだけだ。
相手が変わってもいつもその繰り返しだった。
車はエンジンの音だけを響かせて走る。
空虚な思考に流されながら、窓の外を眺めていたが、ふと、意識がこの空間に戻った。
我に返れば、このタクシーの車内と言うものはかなり特殊な空間なんではないかと思う。
見知らぬ者同士がこうして密室の箱の中にいる。
正確に言えば決して密室とは言えないが、こうした深夜の終電も過ぎた時間帯の静寂は、不思議な隔離感をもたらしていた。
バックミラーに視線を移す。
ミラーに写る運転手の目元。
何の感情も持たないままそれを眺めた。
運転手の視線は、何事もないように前方を見ている。
――――こいつ、何も聞いてこねぇ
思い返せば、このタクシーに乗ってから行き先は告げないままだった。
あまりに迷いなく走行する車にそんな事さえ忘れていた。
視線を落とし、前の座席の背面にある乗務員カードを見る。
『佐藤寿也』
そう書かれた横の顔写真はタクシー運転手にしては相当若いように感じられた。
――――俺と大して変わんねぇんじゃないか?
そう思い生年月日を見ると確かに自分と同じ年だった。
こうしていると奇妙な感覚だった。
一方的に自分と年の変わらない男の情報が与えられる。
自分を見詰めるその写真の男の表情は無機質で何の感情も持たないようだったが、その整った顔立ちは一目瞭然だった。
――――まるで商品だな
たった一つの思考だったが。
そう思った時、カタリと音を立て自分の中で何かが崩れたのを感じた。
自分の中に眠る邪悪な物。
それを一体いつ人は意識するのだろうか。
普段、見て見ぬふりをする目を背けたい自分。
「あんた、一体どこに連れていってくれる訳?」
そう言いながら吾郎は口元を歪ませた。
ミラーに写る目がちらりと吾郎の眼を見たが、すぐにまた前方を見据える。
「佐藤寿也」は無言のままだった。
タクシードライバーとしての態度ならそれは失格だろう。
しかし、吾郎にとってその反応は自分の欲望を見据えた上での暗黙の了解のように思えた。
「止めろよ」
押し殺したように呟く。
ドライバーの視線は前方の信号を眺め、ほとんど赤になりかけたその場所で急ハンドルを切り左折した。
道を一本隔てれば外界はその景色をまるで様変わりさせる。
外灯の数は急激に減り心許ない位で、道も2台の車がギリギリすれ違える程だった。
道の両脇には鬱蒼と街路樹が並んでいる。
「ここでよろしいですか」
写真と同様、その声も感情を一切排除しようとしてるようだった。
赤いメーターだけが止められている。
「あんたさ…それ業と?」
吾郎は身を乗り出すと座席前方へ体を移動させた。
始めてその運転手の顔を正面から見詰める。
写真と同様、何の感情も持たないかのような表情。
その顔をじっと眺めた。
目。口。首元。
白いシャツのボタンの上2個が外れ、鎖骨が微かに覗いている。
服の上からでもしっかりとした肩幅が見て取れる。
――――あの女と正反対だ
媚びを一切排除した空気。
しかし、それが吾郎にとってとてつもない征服欲を駆り立てた。
「悪ぃけどさ。俺、今日、無茶苦茶どうかしてんだよ」
言い訳のように口にしながら口角を吊り上げる。
自分でもきっとろくでもない顔をしていりるだろう、と思いながら吾郎は運転席の脇にあるレバーを引き、リクライニングを一気に押し倒し、上から見下ろした。
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