taxiV
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【3】
時間はもうすぐ9時を過ぎようとしていた。
もう誰もいないだろうと思いながら、吾郎は会社に戻った。
薄暗いロビーを抜けエレベーターのボタンを押す。上昇していく感覚が止まり再び扉が開く。
ふと吾郎の部署のドアから明かりが漏れているのに気付いた。
嫌な予感がした。
ドアを開けると、一人の女性社員の後姿が目に入る。
制服の白いシャツにサーモンピンクのベスト。ミニスカートからは形の良いふくらはぎが覘いている。
茶色い髪のその姿を目にした瞬間、吾郎は心の中で舌打ちをした。
「お疲れ様」
振り返ったのは中村美保だった。
「茂野君、直帰じゃなかったんだ」
「あぁ」
――――――そんな事分かってただろ
美保は明るい笑顔を向けてくる。
しかし吾郎はすぐに視線を外した。
そんな吾郎を美保の言葉が追う。
「最近全然セックスしてないな」
吾郎の身体が強張った。
無言の吾郎に美保が近付いてくる。
そして胸元が触れそうなほど至近距離まで来ると、真正面から吾郎を見詰めた。
上目遣いの大きな瞳。
グロスで濡れたように光る唇。
それは、女としての魅力を充分に備えたものだ。
何度もこの身体を抱いた。
今は亡き吾郎の実の父親の本田の会社と茂野の経営するこの会社が合併し、吾郎がこの課に配属された時から美保は吾郎を気に掛けてきた。
同い年のこのぶっきらぼうな男が周囲の好奇の目で見られ確執を起こそうとする時、いつでもさり気なくフォローしてきた。
吾郎に対する好意は明らかだった。
初めて吾郎が美保を抱いた日。
誰もいなくなったオフィスで、一人残業をしていた美保を抱き締め、キスをし、デスクの上に押し倒した。
それが、美保が仕組んだ女の罠だと知っていながら。
「私の事、愛してる?」
「あぁ、愛してる」キスをした唇を離しながら答える。
あの時、吾郎に何の躊躇もなかった。
言葉に意味があるなど思いもしなかった。
「ね、しよ?吾郎」
美保は口角を上げそっと右手を吾郎の胸元に触れ、吾郎の両足の間に自分の太腿を割り込ませた。
二人っきりになると美保は吾郎の名を呼ぶ。
美保がこうして吾郎を誘うと、いつでも吾郎はすぐさまスカートの下に手を伸ばし胸を弄った。
なのに今。
吾郎は美保を前に、立ち尽くしたまま動けない。
そんな吾郎に構わず美保は唇を合わせる。
ねっとりとしたグロスの感触に違和感を感じていた。
日中でも吾郎は美保を避けるようになっていた。
こんな時間が訪れるのを怖れていたのかもしれない。
「吾郎?」
唇を離した美保は訝しげに吾郎を見る。
何か言わなくては、と焦る。
「――――悪ぃ・・・今日、ちょっと急いで帰んないとなんねー用事が」
視線を泳がせながら吾郎が口にした途端、美保の僅かな動きが止まり、呟くような美保の声がそれを遮った。
「何言ってるの」
「あ?あぁだから今日はちょっと・・悪い」
「やめてよ」
美保の声が震えている。
「?」
驚いたのは吾郎だった。
美保を見ると目には大粒の涙が溜まっている。
「何、謝ってんの・・・?なに、らしくない事言ってんのよっ!
そんな事、誰も言って欲しくないよっ!」
大声を上げた途端、涙が零れ落ちる。美保が泣くなど想像もしていなかった。
吾郎は呆然とその顔を見詰めた。
――――――そうか・・・そうかもしれねぇ。
人に謝るなんて事、もう随分してなかったな
心の遠い所でぼんやりと思う。
あの夜。
初めて寿也の運転するタクシーに乗り込んだ、蒸し返る真夏の夜。
あの日もこうして美保が待っていた。
それを吾郎は邪険に振り切り、一人酒を飲んだ帰りだった。
美保の言葉は続く。
「吾郎が私を見てない事ぐらい知ってた、本当は誰も愛してなんかいない事ぐらい知ってた。
だけど、身体だけでも吾郎が私と繋がっていらるなら、それでもいいと思ってた。
いつか本当に私を見てくれればいいって・・・
その日まで待とうって・・・・
――――――私はずっと本気で吾郎のこと愛してた」
本当は分かっていたのかもしれない。
美保の気持ちにとっくに気付いていた。
だから余計に美保が疎ましかった。
美保の想いが疎ましかった。
自分もまともに愛せない人間が、人に愛される資格などない。
――――――吾郎くんはさ、寂しい時ほど、乱暴になるんだよね
寿也の声が甦る。
「俺は――――――」
ゆっくりと口を開く。
「そんな資格ねぇ」
「違うわ」
美保は即答した。
「そんなんじゃない。誰か――――――
きっと違う誰かが茂野君を変えてるのよ
私じゃない誰かが」
誰か。
脳裏に寿也が浮かぶ。
あいつが。
俺の何を変えてるってんだ。
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